石崎八幡宮の由来
入力日
2019年10月6日
内容
文武天皇の大宝9年(709)のことである。
行基というえらいお坊さんが、馬に乗って石崎あたりを通りかかった。すると、乗っていた馬が急に足を止め、ぶるぶると震えだした。行基は、不思議に思いながらも馬を進めようとした。しかし、馬はどうしても動こうとしない。しかたなく行基は馬を降りて村の人たちに尋ねた。
すると村人は、
「この辺りは昔、景行天皇が土蜘蛛八十女(つちぐもやそめ)を退治されたところです。その後も、日本武尊(やまとたけるのみこと)が熊襲(くまそ)をうったり、神功皇后が、その生き残った熊襲の子孫を滅ぼしたところです。だから、その恨みをいだく亡霊が出てきて村人を悩ましているのです。特に、雨が降る夜は恐ろしいものです。何日か前も大火事があってたくさんの人が死んでしましました。何とかならないものでしょうか。」
と涙を流しながら話した。この話を聞いた行基は、
「昨日は小田(江北町)の里に泊まりました。宿の者が言うには、『この村には人々がお祈りするための御仏がいらっしゃいません。何とかならないでしょうか。』と一生懸命に頼むので、観音様を一つ作ってやりました。そして、また今日はこの石崎でこのようなことがあろうとは・・・。」
と言って怨霊をお祓いするお経を唱え始めた。そして、ここに鎮護神(ちんごしん)を祭った。
これが石崎八幡宮(中島公民分館近く)のおこりである。今の福母八幡宮は、この石崎八幡宮を移したものだと言われている。
「大町町の伝説」島ノ江寛 著 1998 協文社印刷より
閲覧数
36,779