前髪山の花祭り
入力日
2019年10月6日
内容
今から1400年も昔の話である。
朝鮮の任那(みまな)という国が、となりの新羅(しらぎ)という国から攻められて、大変苦しんでいた。任那は、前から仲良くしていた大和朝廷に助けを求めてきた。そこで、大和朝廷は、大連大伴金村(おおむらじおおとものかなむら)を総大将に大勢の兵士を集め、朝鮮に戦いに行くことにした。金村には、二人の男の子がいた。兄の磐(いわお)を筑紫の国に、弟の狭手彦(さでひこ)を任那の国にやることにした。狭手彦は任那へ攻めていく前に松浦にやってきた。そして、朝鮮へ渡るできるまでの間、この地の豪族、篠原長者の館ですごすこととなった。
篠原長者には佐用姫(さよひめ)という美しい娘がいた。佐用姫が狭手彦の身の回りの世話をしているうちに、二人の間にはいつしか恋が芽生えた。月日は夢のように過ぎていった。桃の花が咲く3月には、船も出来上がり、いよいよ狭手彦が任那へ行く日が近づいてきた。
そんなある日、狭手彦と佐用姫は家来を連れて戦いのときに使う薬草を取りに前髪山(福母の北の山)へ登った。村人の案内で薬草をとりながら、険しい山道を二人はは手を取り合って登った。(福母西の方、焼米村との境この辺りを「姫越の谷」といった。)やっと前髪山にたどり着いたとき、佐用姫の姿が見えない。狭手彦が心配して家来に尋ねると
「姫は、今、美しい景色に見とれていらっしゃいます。」
というと、狭手彦も下を見ながら、
「なるほど、美しいながめじゃ。」
と姫を待ちながら眺めておられた。(ここを「姫待坂」とか「妻恋坂」と呼ぶようになった。)
それから、ハハコグサや永命草などの薬草を採りながら登っているうちに、山頭という村にきた。3月とはいえ時々あられが降り出してきて、薬草も思うように採れなかった。近くの人たちはそれを見ながら気の毒に思い、あちこちの家から集まってきて薬草採りを手伝った。
やがて、薬草採りも終わり、狭手彦と佐用姫は、村人たちと別れを惜しみながら、前髪山を後に松浦の里へと急いだ。狭手彦が佐用姫をいたわりながら、仲良く手を取り合って登ったこの美しい話は、いつの間にか村中に広まった。
桃の花が咲く頃になると、二人の美しい恋を偲んで、村人たちは、この山に来て、花を添え、酒を酌み交わし、琵琶を弾き、歌い、踊った。このようにして、狭手彦と佐用姫の霊を祭るようになった。
これが「花祭り」の起こりである。
~「大町町の伝説」 島ノ江 寛 著 1998 協文社印刷 より
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