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歴史人物一問一答
入力日
2022年2月8日
内容
段 歴史上の人物 1 1 卑弥呼 2 (①)世紀に邪馬台国の女王卑弥呼は、30ほどの小国を治めていた。 3 239年に中国の魏に使いを送り、魏の皇帝から(②)という称号をさずかり、100枚ほどの(③)をもらった。 4 次の史料は、中国の(④)という史書で、卑弥呼が魏に使いを送ったことが書かれている。 5 邪馬台国の王は、もとは男だったが、争いが長く続いたので、国々の王が話し合い、女王の卑弥呼を王に立てた。卑弥呼はまじないによって人々を引きつけた。 6 邪馬台国の位置は現在のところ確定されておらず、大和(奈良県)にあったという説と、(⑤)にあったという説の2つの説が有力である。 7 吉野ケ里遺跡は、1989年に(⑥)県で発掘された遺跡で、弥生時代としては日本最大級の(⑦)集落である。 ①3②親魏倭王③銅鏡④「魏志」倭人伝⑤北九州⑥佐賀⑦環濠 8 2 仁徳天皇 9 仁徳天皇は、4世紀ごろに応神天皇の皇子として生まれ、(①)となった。倭の五王の一人とされ、中国南朝に使いを送った。このころは、(②)朝廷の勢いがもっともさかんなときといわれている。 10 (③)世紀につくられた大仙古墳は、大阪府(④)市にあり、日本最大の規模をほこる(⑤)墳である。 11 古墳の形としては、大山古墳の( ⑤ )のほかに、( ⑥ )墳や( ⑦ )墳などがある。 12 古墳のまわりや上におかれた( ⑧ )から、当時の人々のくらしのようすがわかる。 ①大王②大和③5④堺⑤前方後円⑥円(方)⑦方(円)⑧埴輪 13 3 推古天皇 14 推古天皇は、日本最初の( ① )である。古代は( ① )の時代といわれるほど数が多く、古代だけで6人もいた。 15 推古天皇は、おいの( ② )を摂政にし、おじの( ③ )の協力を得て、新しい政治を行った。 16 推古天皇は仏教を広め、( ④ )文化をひらいた。 ①女帝②聖徳太子③蘇我馬子④飛鳥 17 4 聖徳太子 18 聖徳太子は、用明天皇の子として生まれ、593年に、おばにあたる( ① )天皇の摂政となって天皇の政治を助けた。 19 604年に聖徳太子が示した十七条の憲法は、豪族たちが( ② )として守るべき心得である。これによって、豪族どうしの争いをやめさせること、( ③ )の命令には従うことなど、( ③ )中心の国のしくみを整えようとした。 20 中国のすぐれた制度や文化を取り入れるため、607年に( ④ )を遣隋使としてつかわした。 21 603年に( ⑤ )を制定し、役人の位を12に分け、( ⑥ )にとらわれずに才能のある人を朝廷の役人にとりたてた。 22 ( ⑦ )文化を代表する( ⑧ )は、現存する世界最古の木造建築物で、聖徳太子が( ⑨ )年に建てた寺。670年に焼け、8世紀の初めに再建されたといわれている。現在、( ⑩ )遺産に指定されている。 23 ( ⑧ )の中門の柱は( ⑪ )といって、中ほどがふくらんでいる。このような柱は、( ⑫ )のパルテノン神殿にも見られる。 24 ( ⑦ )文化を代表する彫刻には、( ⑧ )の( ⑬ )や百済観音像がある。 ①推古②役人③天皇④小野妹子⑤冠位十二階⑥家がら⑦飛鳥⑧法隆寺⑨607⑩世界⑪エンタシス⑫ギリシャ⑬釈迦三尊象 25 5 小野妹子 26 小野妹子は、( ① )年に( ② )の命令で最初の遣隋使となった。 27 妹子が隋の皇帝( ③ )にたずさえていった「日の出るところの天子が、日の沈むところの天子に手紙をさしあげる」という内容の国書から、聖徳太子が中国と( ④ )な外交を望んでいたことがわかる。 28 翌年、再び隋に渡ったとき、留学生の高向玄理・南淵請安や留学生の僧旻などをともなって行った。かれらは帰国後、( ⑤ )のときに活躍した。 ①607②聖徳太子③煬帝④対等⑤大化の改新 29 6 蘇我馬子 30 538(552)年、百済から伝えられた( ① )は、蘇我馬子の父稲目が積極的に取り入れ、反対派の( ② )とはげしく対立し、蘇我氏が勝った。 31 馬子は、朝廷では財政をつかさどり、大陸や朝鮮半島からの( ③ )を多くしたがえて大きな権力をもち、天皇と肩をならべるほどだった。 32 馬子は( ④ )とともに、わが国最古の歴史書である「天皇記」「国記」を編集したといわれている。 33 仏教を厚く信仰した馬子は、( ⑤ )を建立した。 34 奈良県明日香村にある( ⑥ )古墳は、馬子の墓といわれている。 ①仏教②物部③渡来人④聖徳太子⑤飛鳥寺⑥石舞台 35 7 中大兄皇子 36 聖徳太子の死後、政治の実権は( ① )氏がにぎっていた。中大兄皇子は、天皇中心の統一国家をつくるために中臣鎌足らとはかって、( ② )とその父蝦夷をほろぼした。 37 日本最初の元号を( ③ )と定め、皇太子として改新の政治を行った。下の史料は、646年に中大兄皇子が出した政治の方針で、(1)は( ④ )の制、(2)は( ⑤ )の法である。 38 これまで天皇や豪族が持っていた土地や人民は、国家のものとする。 39 戸籍をつくり、それに基いて人々に田をわりあてる。 40 朝鮮半島では、( ⑥ )が唐と新羅によってほろぼされた。日本は( ⑥ )を救うために兵を送ったが、( ⑦ )の戦いで大敗した。 41 中大兄皇子は、都を近江国(滋賀県)の( ⑧ )に移し、即位して( ⑨ )天皇となり、日本で初めての法令である近江令を制定した。 42 ( ⑨ )天皇が定めた、最初の全国的な戸籍を( ⑩ )という。 43 ( ⑨ )天皇の死後、弟の( ⑪ )と天皇の子の大友皇子が、天皇のあとつぎを争って戦った。この戦いを( ⑫ )(672年)という。戦いに勝った( ⑪ )は即位して( ⑬ )天皇となり、天皇中心の政治をおし進めた。 44 ( ⑬ )天皇の孫にあたる文武天皇は、701年、( ⑭ )を制定した。 ①蘇我②蘇我入鹿③大化④公地公民⑤班田収授⑥百済⑦白村江⑧大津⑨天智⑩庚午年籍⑪大海人皇子⑫壬申の乱⑬天武⑭大宝律令 45 8 中臣鎌足 46 有力豪族だった中臣鎌足は、( ① )皇子を助けて( ② )氏をたおし、内臣という重要な役職について、大化の改新をおし進めた。のちに天智天皇から大織冠という最高の位と( ③ )の姓をうけ、その後の( ③ )氏繁栄のもとをきずいた。 47 ( ③ )氏の一族は、のちに平安時代の( ④ )政治の中心となって活躍することになる。 ①中大兄②蘇我③藤原④摂関 48 9 元明天皇 49 元明天皇は、( ① )年に今までの( ② )京がせまくなってきたことなどの理由から、現在の( ③ )市にあたる地に平城京をつくった。この平城京は唐の都( ④ )をまねてつくったものである。 50 708年に( ⑤ )国(埼玉県)から銅がさし出されると、天皇は年号を( ⑥ )と改め、日本で最初の貨幣の( ⑦ )をつくった。しかし、都とその周辺でしか流通せず、地方では物々交換が続けられた。 51 日本最古の地理の本である( ⑧ )は、元明天皇がそれぞれの国の国司に命じてまとめさせたものである。これには、その国の産物や伝説、地名の由来などが書かれている。 52 712年に、日本の神話や伝説をまとめるために、稗田阿礼が暗しょうしたものを( ⑨ )が記録した本が、( ⑩ )である。 53 日本の歴史をまとめた( ⑪ )は、舎人親王が中心になってまとめたもので、( ⑩ )とともに、古代を知るための重要な史料である。 ①710②藤原③奈良④長安⑤武蔵⑥和銅⑦和同開珎⑧風土記⑨太安万侶⑩古事記⑪日本書紀 54 10 聖武天皇 55 聖武天皇は、妃(きさき)の光明皇后とともに( ① )を深く信仰した。 56 貴族たちの争いや伝染病・ききんなどが続いて社会が乱れたので、聖武天皇は( ① )の力でこれをしずめようと考えた。そこで、国ごとに( ② )と国分尼寺を建てた。また、総国分寺として、奈良に( ③ )を建て、その本尊として( ④ )をつくることを命じた。 57 ( ④ )は、9年の年月をかけて752年に完成したが、多くの国費を使い、農民に重たい( ⑤ )を負担させることになった。 58 723年に耕地の開墾をすすめるため( ⑥ )という法令が出され、期限つきながら初めて土地の私有が認められた。 59 743年、全面的に土地の私有を認める( ⑦ )を出した。この法令が出されると、貴族・寺社の私有地がふえ、( ⑧ )の制がくずれはじめた。これらの私有地は、のちに( ⑨ )とよばれるようになる。 60 東大寺にある( ⑩ )には、聖武天皇の身の回り品や、大仏完成の儀式に使われた道具など約1万点の品々がおさめられた。( ⑩ )は、断面が台形や三角形の木材を組んでつくる( ⑪ )というつくり方で有名である。 61 中国の唐の影響を受けた、聖武天皇のころ栄えた文化を( ⑫ )という。 62 大伴家持らが編集した( ⑬ )は、現存する最古の歌集である。 ①仏教②国分寺③東大寺④大仏⑤税⑥三世一身の法⑦墾田永年私財法⑧公地公民⑨荘園⑩正倉院⑪校倉造⑫天平文化⑬万葉集 63 11 光明皇后 64 光明皇后は、藤原不比等の娘で、( ① )天皇の皇后である。仏教を厚く信仰し、( ① )天皇に( ② )や国分寺・国分尼寺を建立することをすすめた。 65 光明皇后は、孤児や貧しい人を救うため( ③ )を、貧しい病人のために( ④ )を建てるなど、慈善事業に力をそそいだ。 66 ( ① )天皇の死後、天皇の愛用した日用品などを校倉造の( ⑤ )におさめ、娘を天皇にして、おいの藤原仲麻呂を重く用いた。 ①聖武②東大寺③悲田院④施薬院⑤正倉院 67 12 行基 68 行基は、渡来人の子孫の僧で、( ① )の布教のために各地をまわり、池や道路、橋をつくったりして社会事業に力をそそいだ。朝廷は、はじめは行基の活動をおさえようとした。 69 743年、聖武天皇は東大寺に( ② )をつくる工事を始めたが、工事に要するぼう大な人と物資を集めるため、農民たちに尊敬されている行基に協力を求めた。745年、大僧正の位についた行基は、各地をまわり、人々から寄付を集めた。 70 ( ① )づくりには、すぐれた技術をもつ朝鮮からの( ③ )たちが大きな力をはたした。 71 東大寺の( ① )が完成したのは、行基の死後の( ④ )年であった。 ①仏教②大仏③渡来人④752 72 13 鑑真 73 鑑真は中国の唐の高僧で、( ① )として中国に渡った留学僧の願いで来日し、( ② )宗を伝えた。日本に来るのに5回も失敗し、753年にやっと6回目で成功したが、かずかずの旅の苦難で失明してしまった。 74 聖武上皇と( ③ )皇太后に尊敬された鑑真は、759年に( ② )宗寺院である( ④ )を建立した。仏教のほかにも、唐の進んだ文化を伝え、大きな功績に「大和上」の称号があたえられた。 75 ( ④ )にある鑑真和上像は、( ⑤ )文化を代表する彫刻である。 ①遣唐使②律③光明④唐招提寺⑤天平 76 14 阿倍仲麻呂 77 阿倍仲麻呂は、留学生として( ① )らと唐に渡り、唐の玄宗皇帝に仕え、のち高官にまでなった。 78 仲麻呂は文学にもすぐれ、唐の詩人の李白などとも交わった。故郷をなつかしみ詠んだ「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも」という歌は、( ② )に収められている。 79 仲麻呂は帰国することができず、唐の都( ③ )で一生を終えた。 80 遣唐使は、第1回(630年)の犬上御田鍬から、894年に( ④ )の意見によって停止されるまで、約260年間に( ⑤ )回派遣された。遣唐使の航路は、はじめは北路だったが、朝鮮の( ⑥ )との関係が悪化すると、南路をとるようになった。 ①吉備真備②古今和歌集③長安④菅原道真⑤15⑥新羅 81 15 山上憶良 82 山上憶良は、702年、42才のときに( ① )の一行に加わり唐に渡った。その3年後に帰国し、筑前国(福岡県)の国司などになった。 83 歌人として知られ、社会のようすや人々の苦しみに目を向けた歌をうたった。「万葉集」に収められている「( ② )」には、貧しい農民の生活が生き生きと描き出されている。 84 「万葉集」は、奈良時代の終わりごろにまとめられた日本最古の歌集である。山上憶良のほかにも、柿本人麻呂・山部赤人・大伴家持などのすぐれた歌人や、遠い九州に( ③ )として行った無名の兵士の歌も入っている。 ①遣唐使②貧窮問答歌③防人 85 16 柿本人麻呂 86 柿本人麻呂は、文武天皇につかえた( ① )歌人で、多くの歌をよんだ。 87 人麻呂は「( ② )の祖」とよばれ、万葉集に約450首の歌を残している。 ①宮廷②和歌 88 17 桓武天皇 89 天智天皇の血すじにあたる桓武天皇は、律令制の立て直しをはかるため、都を奈良の平城京から( ① )へ、さらに794年、京都の( ② )に移した。( ② )は、唐の( ③ )にならってつくられ、こののち、約( ④ )年間、日本の都でありつづけた。 90 桓武天皇は、804年、( ⑤ )と空海を遣唐使船で唐に送り、新しい仏教を学ばせた。帰国後、( ⑤ )は( ⑥ )宗を、空海は( ⑦ )宗を広めた。 91 桓武天皇は、東北地方まで勢力をのばそうとしたが、蝦夷(えみし)とよばれる人々が( ⑧ )城(宮城県)を焼きうちするなどの反乱を起こして抵抗した。征夷大将軍に任命された( ⑨ )が蝦夷を制圧し、9世紀には、朝廷が岩手地方まで支配するようになった。 92 このころの征夷大将軍は、蝦夷を討つための臨時の官職だった。しかし、1192年に( ⑩ )が任命されてからは、武家の頭(かしら)にあたえられる官職となった。 ①長岡京②平安京③長安④1100⑤最澄⑥天台⑦真言⑧多賀⑨坂上田村麻呂⑩源頼朝 93 18 最澄 94 最澄は、804年に( ① )の命令で唐に渡り、多くのお経を学んで1年後に帰国した。そして、現在の滋賀県の( ② )に( ③ )を建て、( ④ )を広めた。 95 最澄は、奈良時代の僧のように政治と関係を持つことがないように、山の上に寺を建てた。この( ③ )は、1571年、( ⑤ )に焼きうちされる。 96 ( ④ )は、奈良時代にさかえた南都仏教と対立したが、多くのすぐれた僧を生みだし、最澄は、死後、( ⑥ )の称号があたえられた。 ①桓武天皇②比叡山③延暦寺④天台宗⑤織田信長⑥伝教大師 97 19 空海 98 空海は、唐で密教を学び、帰国したのち現在の和歌山県の( ① )に( ② )を建て、( ③ )を広めた。 99 空海は、最澄と同じように( ④ )天皇から信頼を受け、京都に教王護国寺をあたえられた。また、庶民を教育するための学校( ⑤ )をひらいた。 100 空海は農民のために、各地に池や橋をつくり、とくに香川県につくった( ⑥ )という池が有名である。 101 空海は書道にもすぐれ、( ⑦ )・橘逸勢とともに、「三筆」のひとりである。また、空海は死後、( ⑧ )の称号があたえられた。 ①高野山②金剛峰寺③真言宗④桓武⑤綜芸種智院⑥満濃池⑦嵯峨天皇⑧弘法大師
102 20 菅原道真 103 菅原道真は、894年に( ① )に任命されると、唐のおとろえなどを理由に停止を天皇に進言した。このため、約( ② )年間続いた( ① )は、とりやめられることになった。 104 道真は、藤原氏をおさえようとした宇多天皇に重く用いられ、醍醐天皇の時代に、藤原時平が左大臣になると、道真右大臣に出世した。その後、道真のめざましい出世をねたんだ時平によって無実の罪を着せられ、九州の( ③ )(福岡県)に流され、2年後にその地で死んだ。 105 道真の死後、不吉なことが続いたので、朝廷は道真の霊をしずめるために、京都に北野天満宮を建てた。このため道真は( ④ )とよばれた。 106 道真はすぐれた学者でもあり、現在は( ⑤ )の神様としてしたしまれている。 ①遣唐使②260③大宰府④天神様⑤学問 107 21 紀貫之 108 醍醐天皇の命令により、紀貫之らが中心となって、はじめての勅撰和歌集である「( ① )」を編集した。「万葉集」とくらべて、美しく技巧的な歌が多い。 109 遣唐使が停止されてから、日本独自の文化が発達した。これを( ② )という。平安時代前期の唐風の文化に対してこの名がある。 110 平安時代の初めに漢字から( ③ )がつくり出され、和歌・物語・日記などの( ④ )がさかんになった。紀貫之があらわした「( ⑤ )」は、初めて( ③ )で書かれた日記として有名である。 ①古今和歌集②国風文化③かな(文字)④国文学⑤土佐日記
111 22 藤原道長 112 藤原道長は、4人の娘をつぎつぎに天皇のきさきにして天皇の親せきとなり、1016年には( ① )の官職につき、また翌年には太政大臣となり、権力を強めた。 113 藤原氏は、天皇が幼少のときは( ① )、成人してからは( ② )となって政治の実権をにぎった。この政治を( ③ )という。 114 地方の豪族は、土地を保護してもらうために、有力な貴族や寺社に荘園を寄進し、国司の立ち入りをこばむ権利として( ④ )の権、税を納めなくてもよい権利として( ⑤ )の権をもつようになった。藤原氏全盛のもとになった理由として荘園があげられる。 115 道長は、晩年には( ⑥ )を信仰するようになり、法成寺を建ててそこで死んだ。また、関白にはならなかったが、御堂(みどう)関白とよばれた。 ①摂政②関白③摂関政治④不入⑤不輸⑥浄土教
116 23 藤原頼通 117 藤原頼通は( ① )の子で、後一条・後朱雀。後冷泉3代の天皇の( ② )・( ③ )となり、約50年間も政治の実権をにぎり、( ① )とともに( ④ )政治の全盛期をきずいた。 118 頼通は、京都の( ⑤ )に( ⑥ )を建てた。( ⑦ )文化の代表的な建物である。 119 ( ⑥ )の中にある阿弥陀如来像は、平安時代の仏像づくりの名人である( ⑧ )の作といわれている。この阿弥陀如来像は、( ⑨ )教美術の代表作である。 ①藤原道長②摂政③関白④摂関⑤宇治⑥平等院鳳凰堂⑦国風⑧定朝⑨浄土
120 25 清少納言 121 清少納言は、「源氏物語」の作者( ① )と同時代の女性であり、一条天皇の中宮( ② )につかえて、宮中でくらした。 122 清少納言は、( ② )にすぐれた才能を認められ、宮中の生活や自然のうつりかわりなどを見つめた随筆「( ③ )」をあらわした。 123 「( ③ )」の書き出しは、「( ④ )。やうやう白くなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる」で始まる。 ①紫式部②定子③枕草子④春はあけぼの
124 26 紫式部 125 紫式部は、有名な学者の藤原為時の娘で、父から漢文を学んだ。苦しい生活の中で、人間の運命や心について深く考え、光源氏という貴族を主人公にした「( ① )」を書き始めた。 126 紫式部の文学の才能は、ときの権力者である( ② )に認められ、道長の娘の、一条天皇の中宮( ③ )につかえるようになった。その後も物語を書きつづけ、全54帖にものぼる長編小説となった。 127 紫式部は、日記文にもすぐれた才能を示し、「( ④ )」をあらわした。 ①源氏物語②藤原道長③彰子④紫式部日記
128 27 平将門 129 平将門は、下総国(茨城県)の豪族で、一族と領地を争い、( ① )年におじの平国香をたおして、関東8か国を支配、自ら( ② )と名乗った。 130 940年、国香の子の平貞盛・藤原秀郷らにやぶれた。この平将門の乱と、ほぼ同時期におこった藤原純友の乱を合わせて、( ③ )の乱という。 131 地方の豪族は、地方政治の乱れから自分の土地などを守るために、一族や手下の農民に武装させ、武芸にはげんだ。これが( ④ )のおこりで、平将門はそれらの( ⑤ )として活躍した。 132 武士団の( ⑤ )は、国司として地方に来た皇室や貴族の子孫が多く、なかでも最も有力な武士団は( ⑥ )と( ⑦ )であった。平将門は、桓武天皇のひ孫の高望王の子孫である。 ①935②新皇③承平・天慶④武士⑤棟梁⑥源氏(平氏)⑦平氏(源氏)
133 28 白河上皇 134 白河天皇の父( ① )天皇は、藤原氏とあまり関係がなかったので、藤原氏をおさえて自分で政治をしようとした。白河天皇も父の政治を受けつぎ、さらに自由な立場になるため、( ② )年、わずか8歳の堀河天皇に位をゆずり、自らは( ③ )となり、院で政治を行った。これを( ④ )という。 135 上皇は3代の天皇の間、約40年間も政治の実権をにぎり、出家して( ⑤ )となった。その後、鳥羽・後白河と約100年間( ④ )が続き、藤原氏の勢力は弱まっていった。 136 上皇は、院を守るために武士を集めた。武士たちは( ⑤ )の武士とよばれ、その中でも( ⑥ )氏が重く用いられた。 ①後三条②1086③上皇④院政⑤法皇⑥北面⑦平 137 29 平清盛 138 平清盛は、1156年に天皇と上皇の勢力争いからおこった( ① )で、( ② )とともに後白河天皇側につき、崇徳上皇側をやぶった。 139 ( ③ )年の( ④ )は、( ① )で勝った平清盛と( ② )との争いだった。この戦いで清盛は( ② )をやぶり、平氏の全盛をむかえた。 140 清盛は、1167年に武士で最初の( ⑤ )となると、一族の者を朝廷の高い位につけ、「平氏でなければ人でない」といわれるほどの全盛時代をきずいた。 141 清盛は、今の神戸港である( ⑥ )を整備し、( ⑦ )貿易に力を入れた。( ⑦ )貿易では、硫黄や刀剣などが輸出され、陶磁器や( ⑧ )銭などが多く輸入された。 142 貴族政治と変わらない清盛の政治に対して、( ⑨ )を中心とする各地の武士たちが立ち上がり、その合戦中の1181年、清盛は熱病で死んだ。 ①保元の乱②源義朝③1159④平治の乱⑤太政大臣⑥大輪田泊⑦日宋⑧銅⑨源頼朝 143 30 源頼朝 144 源頼朝は、源氏の総大将の源義朝のあととりとして育てられ、13歳の時、( ① )で平氏にやぶれ、伊豆(静岡県)に流されていた。平氏に対する反感が高まってくると、( ② )の力を借りて兵をあげた。 145 続いて( ③ )も木曽(長野県)で兵をあげ、京都にせめこんだ。さらに、頼朝の弟の( ④ )も加わり、ついに1185年、( ⑤ )の戦いで平氏をほろぼした。 146 平氏をたおした頼朝は、自分と対立するようになった( ④ )をとらえることを口実にして、国ごとに( ⑥ )を、荘園ごとに( ⑦ )を置くことを朝廷からゆるされ、全国を支配した。 147 ( ⑧ )年、頼朝は朝廷から( ⑨ )に任命され、鎌倉に幕府を開いた。これ以後、江戸時代が終わるまでの約( ⑩ )年間にわたって、武家政権が続くことになる。 148 頼朝は、家来になった武士たちに、その領地の所有を認め、また、手がらによって新しい領地をあたえた。このことを( ⑪ )という。これに対して、家来の武士たちは鎌倉や京都を守ったり、幕府の費用を負担したり、また戦いがおこると「いざ鎌倉」と命をかけて幕府のために戦った。このことを( ⑫ )という。 149 頼朝の家来を( ⑬ )という。領地をなかだちにして、主人と家来が結ばれるしくみを( ⑭ )制度、その社会を( ⑭ )社会という。「( ⑮ )」ということばが生れたのは、この当時、領地が武士の生活の土台だったため、命を懸けて領地(一所)を守ったことからである。 150 武士たちは、自分の領地を守るため、また、いざ戦いという時にそなえて、( ⑯ )や( ⑰ )、犬追物などで武芸をみがいた。 ①平治の乱②北条氏③源(木曽)義仲④源義経⑤壇ノ浦⑥守護⑦地頭⑧1192⑨征夷大将軍⑩700⑪御恩⑫奉公⑬御家人⑭封建⑮一所懸命⑯⑰やぶさめ、笠がけ
151 31 源義経 152 源義経は、( ① )の母ちがいの弟で、幼名を( ② )といった。( ③ )年に、兄が平氏をたおそうと兵をあげたのを知ると、それに参加した。 153 義経は、兄の命令で、朝廷と対立していた源義仲の軍勢をやぶり、続いて平氏を一ノ谷・屋島・( ④ )に追いつめ、ほろぼした。 154 この活躍が朝廷に認められ、義経は( ⑤ )から検非違使(京都の町を守る役人)に任命される。しかし、頼朝の許可なくその地位についたため、頼朝の怒りを買い、追われる身になった。義経は、奥州の( ⑥ )のもとに逃れたが、( ⑥ )が死ぬと、その子( ⑦ )にせめられて、家来の弁慶らとともに、衣川の館で自殺した。 ①源頼朝②牛若丸③1180④壇ノ浦⑤後白河法皇⑥藤原秀衡⑦藤原泰衡
155 32源実朝 156 源実朝は、父頼朝と母( ① )の次男として生まれ、兄頼家のあとをうけて、鎌倉幕府の第( ② )代将軍となった。 157 しかし、すでに実権は母方の( ③ )氏に移っており、兄頼家の子公暁によって鎌倉の( ④ )で殺された。実朝の死によって、( ⑤ )の将軍は3代で絶え、( ③ )氏が執権の地位について政治を行うことになった。このような政治を( ⑥ )という。 158 万葉調の歌をおさめた「( ⑦ )」は、源実朝の歌集である。 ①北条政子②3③北条④鶴岡八幡宮⑤源氏⑥執権政治⑦金槐和歌集
159 33 北条政子 160 北条政子は、( ① )の娘で、流人だった( ② )と結婚した。以後、源氏は北条氏のうしろ立てを受けるようになった。 161 頼朝の死後、幕府の政治にあたり、( ③ )とよばれた。 162 1221年、( ④ )上皇が幕府をたおそうと( ⑤ )の乱をおこしたとき、政子は、上皇を前にしりごみする( ⑥ )たちに次のような演説をして、( ⑥ )たちの団結を強めた。 163 「みな心を一つにして聞きなさい。今はなき( ② )公が幕府を開いてからは、みんなに官位や土地をあたえてくださった。その御恩は山よりも高く海よりも深い。朝廷方と戦って( ② )公の御恩にむくいなさい。それでも朝廷方につく者は、ここで今すぐ、はっきりいいなさい」 ①北条時政②源頼朝③尼将軍④後鳥羽⑤承久⑥御家人
164 34 北条泰時 165 北条泰時は、義時の長男で、第( ① )代執権となる。 166 1221年に( ② )がおこると、泰時は京都にせめのぼり、朝廷の軍をやぶった。そして、初代の( ③ )となり、朝廷や西国の武士を監視した。 167 この乱の後、泰時は重要な政務や裁判を相談して決めるため、( ④ )をもうけた。( ④ )には、北条氏の一族や有力な御家人が任命された。 168 泰時は、頼朝以来の武士のしきたりなどをもとにして、51か条からなる最初の武家法( ⑤ )を定めた。これは、年号から( ⑥ )ともよばれる。 ①3②承久の乱③六波羅探題④評定衆⑤御成敗式目⑥貞永式目
169 35 北条時宗 170 北条時宗は、鎌倉幕府の5代目執権の時頼の子として生まれ、18歳で( ① )代目の執権になった。 171 元の( ② )は、朝鮮の( ③ )を征服すると、さらに日本もしたがえようと、たびたび使いをよこした。しかし、当時の執権時宗は、元の使者を追い返すなどの強い態度に出た。 172 元は、1274年と1281年の2回にわたり、大軍で北九州にせめてきた。その戦いを、それぞれ( ④ )、( ⑤ )といい、この2回にわたる元との戦いを( ⑥ )という。 173 時宗は禅宗を深く信じ、中国の宋の禅僧である無学祖元をまねいて、鎌倉に( ⑦ )を建てた。 ①8②フビライ=ハン③高麗④文永の役⑤弘安の役⑥元寇⑦円覚寺 174 36 後鳥羽上皇 175 後鳥羽上皇は、19歳の時に天皇の位を土御門天皇に譲り、以後、順徳・仲恭天皇の代までの約20年間、( ① )を行い、朝廷で力を持ちつづけた。 176 1219年に鎌倉幕府3代将軍( ② )が暗殺され、幕府から皇子を将軍として送るよう要請を受けたが、これを拒否した。 177 1221年、東国の有力武士の参加を期待して、執権の( ③ )を討てという命令を全国に下し、( ④ )を起こした。このとき、尼将軍とよばれていた( ⑤ )は、御家人たちを集めて( ⑥ )の御恩にこたえるときであると述べ、東国武士を団結させた。 178 幕府に敗れた後鳥羽上皇は、( ⑦ )(島根県)に流された。乱後、幕府は朝廷や西国の武士を監視するために( ⑧ )を京都においた。 179 後鳥羽上皇は、和歌の才能にすぐれ、( ⑨ )らに命じて「( ⑩ )」を編集させた。 ①院政②源実朝③北条義時④承久の乱⑤北条政子⑥源頼朝⑦隠岐⑧六波羅探題⑨藤原定家⑩新古今和歌集
180 37 親鸞 181 親鸞は、中流貴族の日野氏に生まれたが、父母の死後9歳で出家して、比叡山の( ① )で修行をした。29歳の時、( ② )の弟子になり、念仏を学んだ。 182 やがて親鸞は、「南無阿弥陀仏」を一心にとなえれば、どんな人も救われるという( ③ )宗をひらいた。( ③ )宗は( ④ )宗ともいい、室町時代に出た蓮如によって北陸・近畿・東海地方を中心に広まった。これらの地方では( ④ )一揆がさかんにおこった。 183 漁師が生活のために魚を殺さなければならないように、生活の中で悪行を犯すことに苦しんでいる( ⑤ )こそ、阿弥陀仏の救いがあるとしたのが、親鸞の「( ⑤ )正機説」である。 ①延暦寺②法然③浄土真④一向⑤悪人
184 38 日蓮 185 日蓮は、親鸞の約50年後に安房(千葉県)の漁師の子に生まれた。12歳で出家して( ① )や金剛峰寺などで修行した。 186 故郷に帰った日蓮は、( ② )こそが仏教の本当の教えであると信じ、「( ③ )」という題目をとなえれば救われるという( ④ )宗をひらいた。 187 日蓮は鎌倉に出てきて、街頭で辻説法を行い、他の宗派をはげしく攻撃した。さらに( ④ )宗によって国を治めるべきだとする「( ⑤ )」を、第5代執権の( ⑥ )にさし出した。しかし、国難が来ると予言して幕府の政治を非難したため、伊豆(静岡県)に流された。 188 日蓮は元寇を予言して有名になったが、逆に世の中を不安にするとしてとらえられ、佐渡(新潟県)に流された。この時の執権は( ⑦ )である。 ①延暦寺②法華経③南無妙法蓮華経④日蓮(法華)⑤立正安国論⑥北条時頼⑦北条時宗
189 39 栄西 190 栄西は、備中国(岡山県)の神社に生まれ、14歳で出家して比叡山で( ① )を学んだ。 191 栄西は、宋で禅の道を学び、( ② )宗という新しい仏教をひらいた。 192 ( ② )宗は鎌倉幕府に歓迎され、第2代将軍( ③ )の援助で京都に建仁時を建てた。 193 栄西は、宋から( ④ )の種子を持ち帰り、肥前国(佐賀県)の背振山に植え、日本に( ④ )を広め、薬としての効能を説明した「喫茶養生記」をあらわした。 ①天台宗②臨済③源頼家④茶
194 40 道元 195 道元は、貴族の源通親の子に生まれたが、両親を早くになくし、13歳で出家して比叡山( ① )で修行した。 196 その後、( ② )がひらいた臨済宗を学び、1223年に( ③ )にわたり、座禅修行をした。 197 道元の禅宗は、さとりがひらけるのはきびしい座禅だけだとして、他の宗派から反発され、弾圧された。その後、京都を追われた道元は、越前(福井県)に( ④ )を建て、そこを中心に活動した。道元のひらいた禅宗を( ⑤ )宗という。 198 1247年、鎌倉幕府第5代執権の( ⑤ )に戒律をさずけた。道元は、生涯名誉や利益にとらわれることはなく、その教えは地方武士を中心に広まった。 ①延暦寺②栄西③宋④永平寺⑤曹洞⑥北条時頼
199 41 吉田兼好 200 吉田兼好は、京都吉田神社の神官の子として生まれ、のちに後三条天皇に仕えたが、天皇の死後に出家して僧になった。そのため( ① )ともよばれる。 201 40代に随筆「( ② )」を書いた。日本の三大随筆は、清少納言の「( ③ )」、鴨長明の「( ④ )」、吉田兼好の「( ② )」である。 202 吉田兼好は( ⑤ )にもすぐれ、( ⑤ )四天王の一人に選ばれた。 ①兼好法師②徒然草③枕草子④方丈記⑤和歌
203 42 運慶 204 藤原氏の氏寺の( ① )を中心に、12世紀に活躍した仏師の集団を南都仏師という。 205 1180年に、平重比衝が東大寺・( ① )などを焼きうちした「南都焼きうち」事件で、多くの仏教文化遺産が失われた。東大寺の復興に際して、僧の( ② )が総指揮をとり、大仏殿の再建などにあたった。 206 1186年、運慶は鎌倉幕府の初代執権( ③ )のさそいで、伊豆韮山にある寺の仏像をつくった。運慶の力強く写実的な作風は、東国の武士たちにうけた。 207 1203年、運慶は( ④ )とともに、東大寺の( ⑤ )に( ⑥ )を完成させた。 ①興福寺②重源③北条時政④快慶⑤南大門⑥金剛力士像 208 43 フビライ=ハン 209 フビライ=ハンは、モンゴル民族を統一した( ① )の孫として、1215年に生まれた。 210 ( ② )帝国の5代目の皇帝になり、首都をカラコルムから( ③ )(現在の北京)に移した。1271年には、国名を中国風の( ④ )に改めた。 211 ( ④ )の領土は、インドと日本をのぞくほぼ全アジアにおよび、チベットや朝鮮半島の( ⑤ )を属国にした。 212 フビライは日本を征服しようと、1274年に約3万の軍勢を日本に送ったが、武士の活躍と暴風雨のため失敗に終わった。これを日本では( ⑥ )という。 213 7年後の1281年に、再び14万の兵で日本を攻めてきたが、またも失敗した。これを日本では( ⑦ )という。この2度にわたる元の襲来を( ⑧ )という。元は、3度目の日本遠征を計画したが、ベトナムや中国南部で反乱がおこり、実行できなかった。 214 日本では、( ⑥ )などで生活が苦しくなった御家人を救うため、幕府は借金の帳消しを命じる法令を出したが、失敗に終わった。この法令を( ⑨ )という。 ①チンギス=ハン②モンゴル③大都④元⑤高麗⑥文永の役⑦弘安の役⑧元寇⑨(永仁の)徳政令 215 44 マルコ=ポーロ 216 マルコ=ポーロは、( ① )のベネチアの商人の子に生まれ、1271年、父やおじとともに東方旅行に出発し、5年の歳月をかけて元の都の( ② )に着いた。 217 皇帝の( ③ )に17年間も仕え、中国各地を旅行した。1299年ごろ、「( ④ )」をまとめ、その中で日本を「( ⑤ )の国ジパング」として紹介している。 218 「( ④ )」によって、ヨーロッパ人のアジアに対する関心が高まった。( ⑥ )を横断して西インド諸島に到達したイタリア人の( ⑦ )も、この本の愛読者だった。 ①イタリア②大都③フビライ=ハン④東方見聞録⑤黄金⑥大西洋⑦コロンブス 219 45 後醍醐天皇 220 後醍醐天皇は、政権を朝廷に取り戻そうとして、2度にわたって鎌倉幕府の倒幕を計画したが失敗し、2度目には( ① )に流された。 221 しかし、このころ幕府の中では、北条氏に対してほかの武士の不満が高まっており、( ① )をぬけだした天皇は、河内国(大阪府)の豪族( ② )や御家人の( ③ )・新田義貞らの協力を得て、1333年に北条氏をほろぼして鎌倉幕府をたおした。 222 翌年、京都にもどった後醍醐天皇は、年号を( ④ )に改め、政治を始めた。これを( ⑤ )という。 223 しかし、この政治は皇族・公家中心で、武士に対する恩賞も低かったので、( ⑤ )に対する武士の不満が急速に高まった。( ③ )は、天皇の政治に不満を持つ武士を集めて京都に攻めこんだ。これによって( ⑤ )は、わずか3年で終わり、天皇は( ⑥ )に逃れた。 224 ( ③ )は京都に新しい光明天皇をたてて、幕府をひらいた。しかし、後醍醐天皇はこれを認めず、( ⑥ )に朝廷をひらいた。京都の朝廷を( ⑦ )、( ⑥ )を( ⑧ )とよんで、この後60年間対立がつづくことになる。後醍醐天皇は、( ⑥ )で52歳でなくなった。 ①隠岐②楠木正成③足利尊氏④建武⑤建武の新政⑥吉野⑦北朝⑧南朝 225 46 足利尊氏 226 足利氏は清和源氏の流れをくむ名門で、鎌倉幕府の中でも大きな勢力をもっていた。足利尊氏は( ① )年、後醍醐天皇に味方して、京都の( ② )を攻め落とし、幕府をたおす重要な役割をはたした。 227 建武の新政では、もっとも功労があったとして、( ③ )の名「尊治」の一字をもらって「高氏」を「尊氏」とあらためた。 228 建武の新政は、武士の期待にあわないもので、失望する武士をまとめた尊氏は、1335年、兵をあげた。翌年、( ④ )をやぶって京都に攻めこんだが北畠顕家らに攻められて、いったん九州に落ちのびた。態勢を立て直した尊氏は、京都に攻めのぼり、湊川の戦いで( ⑤ )の軍をやぶって京都に入った。 229 京都を占領した尊氏は、( ⑥ )になって幕府をひらいた。( ⑦ )にのがれた後醍醐天皇も、( ⑦ )で朝廷をひらいたため、尊氏がたてた光明天皇の( ⑧ )と( ⑨ )の対立がつづいた。 ①1333②六波羅探題③後醍醐天皇④新田義貞⑤楠木正成⑥征夷大将軍⑦吉野⑧北朝⑨南朝 230 47 足利義満 231 足利義満は、( ① )の孫で、1368年、11歳で室町幕府の第3代将軍となった。1378年には、京都の室町に( ② )とよばれる役所をかねた屋敷をつくった。このため、足利氏の幕府を室町幕府とよぶ。 232 室町幕府のしくみは、鎌倉幕府とほとんど同じだが、執権がなくなり、( ③ )がおかれた。( ③ )や侍所の長官には、有力な( ④ )大名が交代であたるようにした。 233 義満は、( ⑤ )年、南北朝の合一を実現した。 234 1394年、義満は将軍職を子の義持にゆずったが、政治の実権はにぎり続け、京都の北山に( ⑥ )を建てた。 235 義満は、朝鮮や中国との貿易によるばくだいな利益に目をつけ、( ⑦ )(中国)と正式に貿易を始めた。貿易船は、日本人の海賊の( ⑧ )と区別するために( ⑨ )という割り札を用いたので、( ⑦ )との貿易を( ⑨ )貿易ともいう。 236 義満は、能楽を大成した観阿弥・( ⑩ )父子を保護したり、禅宗のなかで( ⑪ )宗を保護した。 ①足利尊氏②花の御所③管領④守護⑤1392⑥金閣⑦明⑧倭寇⑨勘合⑩世阿弥⑪臨済
237 48 足利義政 238 足利義政の父6代将軍義教は、きびしい政治をしたために播磨国(兵庫県)の守護大名赤松氏に暗殺された。義政は1449年に第( ① )代将軍になったが、幕府の実権は有力な( ② )がにぎっていた。そのため、義政はしだいに政治に無関心になり、妻の( ③ )が力をもつようになった。 239 ( ③ )は、関所をもうけて商人から通行税を取ったり、大名に高利貸しをしたりして富をたくわえた。このような悪政にくわえ、ききんが続き、世の中は乱れていた。生活に苦しんだ農民たちは、借金の帳消しを求める( ④ )をたびたびおこした。そのため義政は、( ⑤ )とよばれる法を13回も出したが、ききんへの対策は立てなかった。 240 義政には子がなかったため、弟の義視を自分のあとつぎにしようとした。ところが、のちに( ③ )との間に義尚が生まれたため、義視と義尚との間で将軍のあとつぎ争いがおこった。( ③ )と義尚は有力な( ② )の( ⑥ )を、義視は同じく有力な( ② )の( ⑦ )をたより、( ⑧ )年、両者が戦いをはじめ、( ⑨ )がおこった。 241 ( ⑨ )は、京都を中心に1477年まで11年間も続き、京都は焼け野原となった。乱後、幕府はおとろえ、多くの( ② )も没落し、かわって( ⑩ )が登場し、世の中は戦国時代となった。 242 義政はほとんど政治をしなかったが、芸能や美術のよき理解者で、身分にかかわらず芸人をとりたてた。かれがつくらせた京都東山の( ⑪ )は、( ⑫ )文化の代表である。 ①8②守護大名③日野富子④土一揆⑤徳政令⑥山名宗全(持豊)⑦細川勝元⑧1467⑨応仁の乱⑩戦国大名⑪銀閣⑫室町
243 49 世阿弥 244 世阿弥の父( ① )は、ものまねの性格の強い( ② )に曲舞の要素をとり入れて、洗練された能をつくりあげた。世阿弥は、7歳のころから父のもとで能のけいこを始めた。 245 3代将軍( ③ )は、世阿弥父子を保護したが、4・5代将軍からは迫害された。 246 世阿弥は、能の作家でもあり、50ほどの作品が残っている。また、能の芸術論である「( ④ )」を著した。 ①観阿弥②猿楽③足利義満④花伝書(風姿花伝)
247 50 雪舟 248 雪舟は、現在の( ① )県にあたる備中国に生まれ、幼いころから寺に修行に出された。やがて京都の禅寺相国寺に入り、そこで周文という僧から絵を習い、( ② )を学んだ。 249 雪舟は、周防国(山口県)の守護大名大内氏の保護を受けて、( ③ )にわたり、本場の( ② )を学んだ。帰国してのちに「山水長巻」、「天橋立図」などのすぐれた作品を残した。 ①岡山②水墨画③明 250 51 武田信玄 251 応仁の乱以後、約100年ほどつづく戦乱の時代を( ① )時代という。そして、この時代に活躍した大名が( ① )大名である。 252 武田信玄は、現在の( ② )県にあたる甲斐国の( ① )大名で、1541年に父信虎を追放して武田氏をついだ。 253 信玄は、領国を支配するために「甲州法度」(「信玄家法」)を定めた。このような法を( ③ )といい、「家法」・「国法」ともよばれ、鎌倉幕府が定めた( ④ )の影響を受けたものが多い。 254 甲斐国は山国で農地が少ないため、信玄は信濃国(長野県)に進出し、越後国(新潟県)の( ⑤ )とはげしく対立、1553年から1564年にかけて5回戦った(川中島の戦い)。 255 1572年、天下統一をめざした信玄は、京都に向かう途中、三方ケ原の戦いで( ⑥ )の軍をやぶり、三河国(愛知県)に攻めこんだが、翌年、陣中でなくなった。 ①戦国②山梨③分国法④御成敗式目⑤上杉謙信⑥徳川家康
256 52 織田信長 257 織田信長は、( ① )国(愛知県)の小さな戦国大名だった。 258 当時、有力な戦国大名は、機会があれば京都に上って、天皇や将軍の権威をかりて天下を統一しようとしていた。駿河国(静岡県)の( ② )もその一人で、1560年、京都に向かい2万5千の兵を進め、( ① )に攻め入った。これに対し、織田信長は3千の兵で( ② )を奇襲し、これをやぶった。この戦いを( ③ )という。 259 ( ② )をたおした信長は、1567年、三河国(愛知県)の( ④ )、近江国(滋賀県)の浅井長政と結び、美濃国(岐阜県)の斎藤氏をほろぼした。そして、( ⑤ )を本拠地とし、「天下布武」をかかげて全国統一にのりだした。 260 1568年、信長は京都に入り、( ⑥ )を将軍に立てた。しかし、政治の実権は信長がにぎっていたため、( ⑥ )は信長と対立するようになり、有力な戦国大名と組んで信長をたおそうとした。そのため、1573年、信長は( ⑥ )を京都から追放し、室町幕府をほろぼした。 261 1575年、信長は、( ④ )とともに甲斐国(山梨県)の( ⑦ )を長篠の戦いでやぶった。この戦いでは3000人の鉄砲隊が活躍した。 262 信長は、近江国の琵琶湖の近くに( ⑧ )を築き、ここに本拠地を移して全国統一事業を進めた。 263 1582年、信長は、中国地方の毛利氏と戦っていた羽柴秀吉の救援に行くとちゅう、家臣の( ⑨ )にそむかれ、京都の( ⑩ )に泊っているところを攻められて自害した。この事件を( ⑪ )という。 264 信長は、( ⑧ )の城下町の商工業者に市場の税を免除し、座の特権を廃止して自由な商工業の発展をはかる( ⑫ )の政策をとった。また、交通の障害になっていた( ⑬ )を廃止した。 265 信長は、仏教勢力が全国統一のさまたげになると考え、一向一揆を弾圧したり、( ⑭ )を焼き打ちしたりした。また、仏教勢力をけんせいするために( ⑮ )を保護した。 ①尾張②今川義元③桶狭間の戦い④徳川家康⑤岐阜⑥足利義昭⑦武田勝頼⑧安土城⑨明智光秀⑩本能寺⑪本能寺の変⑫楽市・楽座⑬関所⑭(比叡山)延暦寺⑮キリスト教
266 53 明智光秀 267 明智光秀は、美濃国(岐阜県)の守護土岐氏の一族だった。父の死後、有力な大名をたよってめぐり歩き、越前国(福井県)の戦国大名( ① )氏に仕えた。 268 1558年から尾張国(愛知県)の戦国大名( ② )に仕え、有力な家臣の一人になった。 269 1582年、( ② )は、中国地方の( ③ )氏の平定に苦戦していた( ④ )を助けるため、安土城を出発した。そして、光秀にも出陣の命令が出された。しかし、光秀は兵を京都に向け、本能寺でわずかな兵とともに休んでいた( ② )を突然襲って、自害させた。この事件を( ⑤ )という。 270 光秀は、( ⑤ )後、ただちに引き返してきた( ④ )と、山城(京都府)の( ⑥ )で戦ったがやぶれ、近江に逃れるとちゅうで農民に殺害された。 ①朝倉②織田信長③毛利④羽柴(豊臣)秀吉⑤本能寺の変⑥山崎
271 55 豊臣秀吉 272 豊臣秀吉は、( ① )国(愛知県)に生まれ、父の木下弥右衛門は、戦のときだけ足軽になる貧しい農民だった。やがて家を出た秀吉は、( ② )のもとで働き、しだいに頭角をあらわしていった。 273 秀吉は、1582年、主君の( ② )が本能寺の変で( ③ )のむほんによってたおれると、その11日後に( ④ )の戦いで( ③ )の軍をやぶった。 274 ( ② )のあとつぎをめぐり、秀吉と柴田勝家が対立したが、1583年、賤ケ谷の戦いでこれをやぶり、ついで( ⑤ )を築いて全国の統一事業をおし進めた。翌年には、小牧・長久手の戦いで( ⑥ )と戦い、勝負がつかず講和を結んだ。1585年には四国の長宗我部氏をしたがえて四国を平定し、( ⑦ )の位についた。翌年には( ⑧ )になって朝廷から豊臣の姓をさずかった。 275 1587年、秀吉は島津氏をしたがわせて九州を平定、そして1590年には関東の( ⑨ )氏を攻めほろぼし、ついで伊達氏もしたがえて全国統一をなしとげた。 276 秀吉は、全国の統一事業を進めるいっぽう、年貢の確保のために全国規模の( ⑩ )を行い、また、1588年には( ⑪ )を出し、農民から武器を取り上げ、兵農分離をはかった。 277 秀吉は、全国統一後、中国の( ⑫ )を征服しようと、2度にわたり朝鮮を侵略した。1度目を( ⑬ )、2度目を( ⑭ )という。 ①尾張②織田信長③明智光秀④山崎⑤大坂城⑥徳川家康⑦関白⑧太政大臣⑨北条⑩検地⑪刀狩令⑫明⑬文禄の役
278 56 石田三成 279 石田三成は、若いときから( ① )に仕え、太閤検地や朝鮮出兵では中心となって働いた。 280 ( ① )の死後、( ② )が政治の実権をにぎるようになったため、三成は、豊臣家をもりたてようとし、( ② )とはげしく対立するようになった。 281 1600年、三成のひきいる西軍と、( ② )のひきいる東軍が美濃国(岐阜県)の( ③ )で戦った。三成のひきいる西軍はやぶれ、三成は京都の六条河原で処刑された。 ①豊臣秀吉②徳川家康③関ケ原 282 57 千利休 283 千利休は、和泉国(大阪府)の( ① )の豪商の子として生まれた。当時の( ① )は、貿易の中心都市としてさかえていた。利休は、幼いころから町衆の間ではやっていた( ② )を学び、「わび茶」の道を大成した。 284 利休は、織田信長と( ③ )につかえたが、のちに( ③ )の怒りにふれ、切腹を命じられた。 ①堺②茶の湯③豊臣秀吉
285 58 フランシスコ=ザビエル 286 ザビエルは、現在の( ① )北東部、ナハラ王国の貴族の子として生まれた。パリ大学でキリスト教を学んでいたときに、イグナチウス=ロヨラに出会い、大きな影響を受けた。1534年、ロヨラとザビエルは仲間とともに、( ② )を結成した。 287 ザビエルは、キリスト教を広めるためにインドにわたり、ここで日本のうわさを聞き、日本でキリスト教を広めようと思いたち、アンジローという日本人の案内で( ③ )年、( ④ )に上陸した。 288 ザビエルは、( ④ )で布教ののち、全国での布教の正式な許可を得ようと( ⑤ )をめざしたが、応仁の乱のあとで天皇にも将軍にも何の力もなかった。そこで、周防国(山口県)の( ⑥ )氏をたずね布教の許可を得た。 ①スペイン②イエズス会③1549④鹿児島⑤京都⑥大内
289 59 徳川家康 290 徳川家康は、もと( ① )氏という( ② )国(愛知県)の小大名だった。そして、6歳から19歳までの13年間を( ③ )氏の人質として過ごした。 291 1560年、今川義元が( ④ )にやぶれると、家康は本拠地の岡崎にもどった。また、( ④ )と同盟を結び、姓も徳川に改めた。信長の死後は豊臣秀吉にしたがい、1590年に関東に移され、( ⑤ )に居城をさだめた。そして、( ⑥ )には加わらず、力をたくわえた。 292 秀吉の死後、( ⑦ )らと対立し、1600年、( ⑧ )の戦いで( ⑦ )らの西軍をやぶり、全国の支配権をにぎった。 293 1603年に朝廷から( ⑨ )に任命され、江戸幕府を開いた。そして、わずか2年で将軍職をその子( ⑩ )にゆずり、徳川氏が代々将軍になることを天下に示した。 294 1614年と1615年の2度にわたる( ⑪ )で豊臣氏をほろぼし、江戸幕府の土台をかためた。 295 各地の大名は、徳川氏の親類の( ⑫ )、( ⑧ )の戦いの前からの家来の( ⑬ )、それ以後したがった( ⑭ )に分けて、重要なところは( ⑫ )・( ⑬ )に治めさせた。また、領地もときどき替えて、その土地に強い勢力を持てないように工夫した。 296 家康は、1607年に朝鮮との国交を回復した。そして、将軍( ⑮ )のときから、将軍がかわるごとに( ⑯ )が江戸に来るようになった。貿易は、( ⑰ )藩(長崎県)が幕府の許可を得て、朝鮮の釜山(プサン)で行った。 297 徳川家康は、外国との貿易をさかんにするため、日本の商船に( ② )状をあたえて貿易を許可した。この貿易を( ② )貿易という。貿易を行ったのは西日本の大名や、京都・堺・長崎などの商人で、東南アジアまで出かけて貿易を行った。輸出品は、( ③ )・銅・いおう・刀などで、輸入品は、( ④ )・絹織物・シカの皮・なまりなどだった。 ①松平②三河③今川④織田信長⑤江戸⑥朝鮮出兵⑦石田三成⑧関ヶ原⑨征夷大将軍⑩徳川秀忠⑪大阪の陣⑫親藩⑬譜代⑭外様⑮徳川家光⑯朝鮮通信使⑰対馬
298 60 徳川家光 299 徳川家光は、2代将軍( ① )の次男として生まれた。からだが弱かったので、あとつぎになれるか問題になったが、乳母の春日局にたすけられ、20歳のとき3代将軍となった。といった。 300 政治の実権は将軍がにぎっていたが、そのもとで将軍を助ける( ② )と、( ② )を助ける若年寄がおかれ、幕府の政治を行った。また、非常のときには( ③ )という臨時の職がおかれた。 301 江戸幕府が大名を統制するために制定した( ④ )に、家光のときに( ⑤ )の制度が追加された。これによって、大名は1年おきに領地と江戸に住み、妻子を人質として江戸の屋敷に住まわせることが義務づけられた。 302 幕府や藩の収入の大部分は、農民がおさめる( ⑥ )だった。幕府は、1649年に( ⑦ )を出し、農民のふだんの生活にきびしい制限を加えた。 303 幕府は、はじめキリスト教を認めていたが、やがて禁教令を出し、宣教師を追放してキリシタンをとりしまった。1637年におこった( ⑧ )の後、ますますとりしまりを強化し、1639年には( ⑨ )船の来航を禁止、1641年には平戸のオランダ商館を長崎の( ⑩ )に移して、貿易をきびしく監視した。このように外国との交易を制限することを( ⑪ )という。( ⑪ )は以後、約( ⑫ )年間続けられたが、この間、オランダ・中国とは貿易のみを行い、朝鮮とは国交をもち貿易を行った。 ①徳川秀忠②老中③大老④武家諸法度⑤参勤交代⑥年貢⑦慶安の御触書⑧島原の乱⑨ポルトガル⑩出島⑪鎖国⑫200 304 59 天草四郎 305 天草四郎は、本名を( ① )といい、肥後国のキリシタン大名小西行長の家来の子として生まれたといわれている。たびたび長崎に出かけ、そこでキリシタンとなった。 306 ( ② )(熊本県)・( ③ )(長崎県)地方は、かつてはキリシタン大名がおさめていた地域で、キリスト教徒が多いところだった。1637年におこった( ④ )は、幕府の方針にしたがった領主の重い年貢の取り立てときびしいキリスト教のとりしまりにたまりかねた農民たちが、天草四郎を総大将にしておこした一揆である。 307 乱後、幕府は( ⑤ )船の来航を禁止した。これによって実質的に鎖国は完成した。また、キリスト教の弾圧を徹底させ、キリシタンを発見するためにキリストやマリアの像をきざんだ銅版をふませる( ⑥ )を行った。また、すべての人々をいずれかの寺院に登録させる( ⑦ )制度をもうけ、信仰する宗派を調べる宗門人別改帳をつくらせた。 ①益田時貞②天草③島原④島原の乱⑤ポルトガル⑥踏み絵⑦寺請 308 60 山田長政 309 山田長政は、1611年ごろにシャム(現在のタイ)にわたった。首都アユタヤにつくられていた( ① )の長となり、内戦でも日本人をひきいて活躍し、国王の信頼を得たが、国王の死後、政権争いにまきこまれ、毒殺された。った。 ①日本町②朱印③銀④生糸 310 61 三井高利 311 三井高利は、伊勢国(三重県)の商人の家に生まれ、江戸に出て( ① )という呉服屋を開き、さらに( ② )(今の銀行業)もはじめて大きな利益をあげた。 312 1687年には幕府の御用商人となり、高利の死後も三井家は発展を続け、明治時代になると、( ① )は百貨店となって現在の( ③ )の前身となった。その後、財閥として日本経済に大きな影響をあたえた。 ①越後屋②両替商③三越 313 62 徳川綱吉 314 徳川綱吉は、3代将軍家光の4男として生まれたが、兄の4代将軍家綱があとつぎのないまま死去したので、1680年に( ① )代将軍となった。儒学、とくに( ② )を好み、林羅山の建てた私塾を湯島に移し、ここに( ③ )をまつる聖堂を開いて( ② )、をさかんにした。 315 「綱吉にあとつぎが生まれないのは、綱吉が戌(いぬ)年生まれなのに、人々が犬を大切にしないからだ」という僧のことばを信じた綱吉は、たびたび( ④ )の令を出したため、人々は綱吉を( ⑤ )とよび、令の廃止を強く望んだ。 316 17世紀半ばから18世紀初めにかけての( ⑥ )時代は、文治政治が進んで、幕藩体制がいちおうの安定をみせた。 ①5②朱子学③孔子④生類憐れみ⑤犬公方⑥元禄 317 63 新井白石 318 新井白石は朱子学を学び、6代将軍徳川家宣につかえ、( ① )とよばれる政治を行った。 319 白石は、5代将軍綱吉によって混乱した政治を改めた。( ② )を廃止し、貨幣の質をよくして物価の安定につとめた。また、( ③ )での貿易を制限して金銀の海外流出を防ぎ、幕府の財政の安定をはかろうとした。さらに、朝鮮からの使者である( ④ )をむかえる儀式を簡素化し費用の節約をした。 320 7代将軍家継の死後、徳川吉宗が8代将軍になると、白石は政治から遠ざけられた。そして、学者としての生活を送り、多くの書物を書いた。密入国したシドッチを取り調べて書いた『( ⑤ )』や、オランダ人から聞いて書いた『采覧異言』などが有名である。 ①正徳の治②生類憐れみの令③長崎④朝鮮通信使⑤西洋紀聞 321 64 井原西鶴 322 井原西鶴は、大阪の商人の家に生まれ、はじめは俳諧の作者として有名になった。40歳のとき、今の小説である( ① )の作者となり、『好色一代男』・『日本永代蔵』・『世間胸算用』など、町人や商人の世界をいきいきとえがいた作品を多く書いた。 323 5代将軍綱吉のころ、上方を中心に、はなやかで人間味豊かな町人文化がさかえた。この文化を、当時の年号をとって( ② )文化とよんでいる。 ①浮世草子②元禄 324 65 近松門左衛門 325 近松門左衛門は、越前国(福井県)の武士の家に生まれた。若いころから文学や仏教に親しんでいた。そして、20歳ごろに歌舞伎や( ① )(人形しばい)の作者になった。 326 近松は、京都で活躍していた歌舞伎役者の( ② )のために台本を書き、2人の活躍で歌舞伎がさかんになった。そののち、( ① )の語り手の( ③ )と出会い、彼のために多くの作品を書いた。とくに実際に起きた男女の自殺事件をもとにした『( ④ )』は、大評判になった。 ①人形浄瑠璃②坂田藤十郎③竹本義太夫④曽根崎心中 327 66 松尾芭蕉 328 伊賀上野(三重県)に生まれた松尾芭蕉は、武士の身分をすて、町人としての生活を送った。京で俳句を学び、その後江戸に出てさらに俳句の修行を続けた。そのころ江戸では、ことばのあそびやこっけいさを求めた( ① )派の俳句がさかんで、芭蕉もそれに加わり、弟子もできるようになった。 329 芭蕉は、( ① )派の俳句にあきたらず、人間の心や自然の美しさを俳句に詠もうと考え、( ② )風という新しい俳句の流派をうちたてた。そのころ詠んだ「古池や蛙(かわず)とびこむ水の音」の句は有名である。 330 芭蕉は、1689年3月、弟子の河合曽良をともなって、東北・北陸へ旅立った。この旅のようすと、おりおりに詠んだ俳句を紀行文にまとめたものが『( ③ )』である。 ①談林②蕉風③奥の細道⑪青木昆陽 331 67 徳川吉宗 332 ( ① )藩(和歌山県)の藩主だった徳川吉宗は、1716年、江戸幕府の第8代将軍となった。 333 吉宗は、( ② )の政治を理想として幕府政治の立て直しにとりくんだ。この吉宗の政治の改革を( ③ )という。 334 人々の意見を広く聞くために、( ④ )を設置した。これによって、江戸市中の消火制度が定められたり、小石川養生所がもうけられたりした。 335 公正な裁判を行うために、裁判や刑罰の基準を決めた( ⑤ )を定めた。 336 大名から1万石につき100石の米をおさめさせるかわりに( ⑥ )をゆるめるという( ⑦ )の制を実施した。 337 農民からの年貢の取り方も、役人が毎年作物のできを調べて決める( ⑧ )法から、豊作や凶作に関係なく毎年決まった量をおさめさせる( ⑨ )法にかえ、年貢の割合を引き上げた。 338 米に値段にも非常に気を使い、そのため吉宗は「( ⑩ )」とよばれた。また、新田開発をすすめたり、( ⑪ )に甘藷(さつまいも)の栽培を研究させてききんに備えるなど、産業の発展にも意をつくした。 ①紀伊②徳川家康③享保の改革④目安箱⑤公事方御定書⑥参勤交代⑦上げ米⑧検見⑨定免⑩米将軍 339 68 田沼意次 340 田沼意次は、第10代将軍家治のときに( ① )となり、幕府政治の実権をにぎった。商人の経済力を利用して、幕府の政治を立て直そうと考えた。 341 商工業の組合である( ② )を積極的に認め、運上・冥加金などの税収の増加をはかり、商人の資本をもとに印旛沼・手賀沼の干拓を行った。さらに、幕府自体が販売利益をあげるため朝鮮人参や銅を専売する座を始めたり、金銀の海外流出を防ぐために、長崎貿易の支払を海産物を俵に詰めた俵物で行ったりした。 342 ( ③ )の大ききんによって( ④ )や打ちこわしががげしくなると、これをきっかけに意次は老中をやめさせられた。 ①老中②株仲間③天明④百姓一揆 343 69 松平定信 344 松平定信は、( ① )の孫だったが、( ② )藩(福島県)の松平家の養子となった。第11代将軍家斉のときに30歳の若さで老中となり、( ① )が行った( ③ )を手本にして( ④ )を行った。 345 武士には学問や武芸をすすめ、幕府の学問所では( ⑤ )以外の学問を禁止した(寛政異学の禁)。また、生活が苦しくなった旗本・御家人をすくうため、質素・倹約を命じるとともに、( ⑥ )を出して商人からの借金の一部の帳消しを命じた。 346 ききんにそなえて、農村には倉をもうけて米をたくわえさせ、大名にも米をたくわえさせた。これを( ⑦ )の制という。 347 政治を批判したり、風紀を乱すような出版物に対する取りしまりを強めた。このため、『海国兵談』を書いて海岸の防衛の重要性を主張した( ⑧ )は、幕府の鎖国政策を混乱させるとして処罰された。 348 「白河の清きに魚のすみかねてもとの濁りの田沼こひしき」は、定信の行った( ④ )の息苦しさを風刺した( ⑨ )である。 ①徳川吉宗②白河③享保の改革④寛政の改革⑤朱子学⑥棄捐令⑦囲い米⑧林子平⑨狂歌 349 70 シーボルト 350 ( ① )人のシーボルトは、長崎の( ② )にあるオランダ商館の医師として1823年に来日した。長崎郊外に診療所をかねた( ③ )を開いて蘭学や医学を教えた。有名な蘭学者の( ④ )は、その塾生の一人である。 351 1828年にシーボルトが帰国するとき、国外持ち出し禁止の( ⑤ )が発見され、いわゆる( ⑥ )がおこり、シーボルトは国外追放の処分を受けた。 ①ドイツ②出島③鳴滝塾④高野長英⑤日本地図⑥シーボルト事件
352 71 大塩平八郎 353 大塩平八郎は、( ① )町奉行所の与力であるとともに、( ② )学の学者としても知られていた。( ③ )という塾を開いて、同僚の子どもや裕福な農家の人々に教えていた。 354 天保年間には毎年のように凶作が続き、農村では( ④ )、都市では貧しい人々が米屋や大商人を集団でおそう( ⑤ )がひんぱんに起こった。 355 大塩平八郎は、1837年、( ⑥ )のききんのとき、ききんに苦しんでいる人々を救おうとして、( ① )で反乱を起こした。これを( ⑦ )という。乱は1日でしずめられたが、幕府の直轄地で、幕府の元役人が反乱を起こしたことから、幕府や諸藩に大きなショックをあたえた。 ①大阪②陽明③洗心洞④百姓一揆⑤打ちこわし⑥天保⑦大塩平八郎の乱 356 72 水野忠邦 357 水野忠邦は、浜松藩(静岡県)の藩主から、幕府の( ① )になり政治改革を行った。この改革を( ② )という。 358 忠邦は、物価を下げぜいたくを禁止しようと( ③ )令を出し、さらに商売を独占して物価を上げていた( ④ )を解散させた。しかし、かえって経済は混乱した。 359 また、あれた農村を救うため、江戸に出かせぎにきている農民を自分の農村に返すことをねらって、( ⑤ )令を出した。 360 忠邦は、つづいて幕府の財政と軍事力を高めるため、( ⑥ )・大阪の周辺の大名・旗本の領地を取り上げる( ⑦ )令を出したが、反対が大きく、失敗した。この失敗で忠邦は老中をやめさせられ、改革はわずか2年5ヶ月で終わった。 ①老中②天保の改革③倹約④株仲間⑤人返し⑥江戸⑦上知(地) 361 73 杉田玄白 362 杉田玄白は、小浜藩(福井県)の藩医で、ドイツ人のクルムスが書いた「解剖図譜(かいぼうずふ)」をオランダ語に訳した「( ① )」という本を手に入れた。1771年に刑死体の解剖を見学した玄白は、この本に書かれてある図の正確さを知り、( ② )らとともに3年半かけて日本語にほん訳し、1774年に「( ③ )」として出版した。 363 この本は、日本で最初の西洋医学のほん訳書となり、多くの人々に影響を与え、オランダ語で西洋の学問を研究する( ④ )を発展させる土台になった。 364 「( ③ )」が出版されるまでの苦労話をまとめたのが、「( ⑤ )」である。 ①ターヘル=アナトミア②前野良沢③解体新書④蘭学⑤蘭学事始 365 74 伊能忠敬 366 伊能忠敬は、上総国(千葉県)九十九里町の神保家に生まれたが、18歳のとき、( ① )国(千葉県)佐原村の大きな酒屋だった伊能家の養子となった。かたむきかけていた商売を立て直した忠敬は、50歳のとき、家を長男にまかせて江戸に出て、暦を作成する仕事を担う天文方の高橋至時に、天文学を学んだ。 367 天文学を勉強した忠敬は、56歳のとき、幕府の命令で、( ② )(今の北海道)南部の海岸を測量した。この測量に成功した忠敬は、日本全国の地図を作成する決意をし、その後17年かけて全国の海岸ろおもな街道の測量を終えた。 368 忠敬は、この仕事の途中で死んだが、弟子たちにうけつがれ、1821年に( ③ )として完成した。この地図はたいへん正確で、明治時代まで使われた。 ①下総②蝦夷地③大日本沿海輿地全図 369 75 本居宣長 370 ( ① )は、日本の古典の研究を通して、日本人古来の心や考え方を明らかにしようとする学問で、江戸時代の中ごろに始まった。 371 本居宣長は、伊勢国(三重県)松阪の商人の家に生まれたが、父が死ぬと商売がうまくいかなくなった。宣長は医者になろうとし、22歳のとき、京都に出て医学や儒学を勉強した。儒学の先生から( ① )の勉強をすすめられ、宣長は松阪に帰って医者をしながら( ① )の研究にとりくんだ。 372 34歳のとき、「万葉集」の研究者だった( ② )をたずねて、「万葉集」よりも古い「( ③ )」の研究をするようにすすめられた。そして、35年もかかって「( ③ )」の解説書である「( ④ )」を完成させた。 373 宣長は、「( ③ )」の研究を通じて、日本人が昔からもっている考え方である「やまとごころ」を見出し、仏教や儒教の考え方ではなく、「やまとごころ」を大事にすべきであると主張した。この考え方は、宣長の死後、国学者の( ⑤ )にうけつがれていった。 374 また、宣長によって大成された( ① )は、幕末の( ⑥ )攘夷運動の思想にも大きな影響をあたえた。 ①国学②賀茂真淵③古事記④古事記伝⑤平田篤胤⑥尊王 375 76 高野長英 376 高野長英は、水沢藩(岩手県)の武士の家に生まれ、おじで藩の蘭学医だった高野玄斎の養子となった。玄斎は、前野良沢らと「解体新書」をあらわした( ① )の弟子であった。 377 長英は17歳で江戸に出てオランダ医学を学んだ。そしてその5年後に( ② )にあるシーボルトの( ③ )で学び、のちに江戸で医者を開業するとともに、塾を開いて蘭学を教え、洋書のほん訳をした。 378 1825年、清と朝鮮および( ④ )以外の国の船はすべて打ち払うことを定めた( ⑤ )が出され、そのためにアメリカ船の( ⑥ )号が砲撃により追い返された。長英は、日本が開国しなければ外国からとり残されると考え、幕府の鎖国政策を批判する本を書き、( ⑦ )らとともに処罰された。この事件を( ⑧ )という。 ①杉田玄白②長崎③鳴滝塾④オランダ⑤外国船打払令⑥モリソン⑦渡辺崋山⑧蛮社の獄 379 77 十返舎一九 380 5代将軍・徳川綱吉のころ、上方(大阪・京都)を中心にさかえた町人文化のことを( ① )文化という。その後、19世紀初めの11代将軍・家斉のころには、文化の中心は江戸に移り、( ② )文化がさかえた。しゃれや皮肉を楽しむという風潮を反映し、小説も( ③ )とよばれる種類のものが人気を集めた。 381 十返舎一九は、駿河国(静岡県)の身分の低い武士の家に生まれ、江戸時代後期を代表する( ③ )の作者となった。代表作の( ④ )は、弥次郎兵衛と喜多八がくりひろげる珍道中が人気を得て、その後も長く書き続けられた。 ①元禄②化政③こっけい④東海道中膝栗毛⑤印象 382 78 葛飾北斎 383 19世紀前半に、江戸を中心に栄えた( ① )文化で町人の人気を集めたのは、( ② )とよばれる多色刷りの浮世絵だった。 384 版画師から浮世絵師になった葛飾北斎は、まず( ③ )の小説のさし絵を描いて評判になり、その後、旅を素材にした作品を多く残した。1831年ごろ、36か所から見た四季おりおりの富士山を大胆に描いた「( ④ )」を完成させた。ほかにはスケッチ集「北斎漫画」が有名である。 385 北斎の絵は、のちにオランダの( ⑤ )などヨーロッパの印象派の画家に強い影響をあたえた。 ①化政②錦絵③滝沢馬琴④富嶽三十六景⑤ゴッホ
386 79 歌川(安藤)広重 387 歌川広重は、江戸の火消しの安藤家に生まれた。そのため安藤広重ともよばれる。広重は15歳のとき歌川豊広という浮世絵師に入門し、はじめは役者絵・美人画などを描いていたが、やがて( ① )に刺激されて( ② )を描くようになった。 388 1832年には広重の代表作である「( ③ )」を完成させた。これは、東海道にある53の宿場の風景を、ひとつひとつ個性的に描いたもので、その後も各地に旅を続け、「名所江戸百景」・「近江百景」・「木曽街道六十九次」など、すぐれた作品を次々に生み出した。 389 1853年に日本に来たアメリカの使節( ④ )は広重の絵を気に入り、母国に持ち帰った。こうして広重の絵は海外にも知られるようになり、とくにヨーロッパの( ⑤ )派の画家に大きな影響をあたえた。 ①葛飾北斎②風景画③東海道五十三次④ペリー 390 ペリー 391 ( ① )艦隊司令長官のペリーは、鎖国中の日本を開国させることを命じられ、( ② )年に、軍艦4隻で日本の( ③ )沖にあらわれた。そして、久里浜に上陸し、アメリカ合衆国大統領フィルモアの国書を幕府の役人に手渡した。しかし幕府は、返事を翌年までのばしたので、ペリーは引きあげた。 392 ( ④ )年、ペリーは再び来航し、7隻の軍艦を江戸湾奥まで侵入し、武力をしめしながら開国を強くせまった。幕府はこれを拒むことができず、( ⑤ )条約を結んだ。この条約によって、日本は( ⑥ )と函館を開港し、200年以上続いた鎖国は終わった。 ①東インド②1853③浦賀④1854⑤日米和親⑥下田①彦根②大老③1858④ハリス⑤日米修好通商条約⑥吉田松陰⑦安政の大獄⑧1860⑨桜田門外の変
393 ハリス 394 アメリカのニューヨーク州生まれのハリスは、アジア貿易にたずさわり中国やインドにくわしかったため、東インド艦隊司令長官( ① )らの推せんで駐日総領事に任命された。そして、1856年、( ② )条約にもとづいて伊豆の( ③ )に着任した。 395 ハリスは、( ④ )年に、日本との間に貿易に関する条約である( ⑤ )を結んだ。このときの幕府の大老( ⑥ )は、朝廷の許可を得ていなかったので、強い反発がおこった。 396 ( ⑤ )により、日本は函館、神奈川、新潟、兵庫、長崎の5港を開港することになった。また、この条約は、アメリカに( ⑦ )を認め、日本に( ⑧ )がないという不平等な内容だった。 ①ペリー②日米和親③下田④1858⑤日米修好通商条約⑥井伊直弼⑦治外法権⑧関税自主権 397 井伊直弼 398 井伊直弼は、( ① )藩(滋賀県)の14男として生まれたが、1850年、兄の藩主直亮が死ぬと、直亮にはあとつぎがおらず、他の兄たちは他の大名の養子になっていたので、直弼が藩主となった。1858年には( ② )となり、幕府政治の中心にすえられた。 399 直弼は、( ③ )年、アメリカの総領事( ④ )との間で、朝廷の許しを得ないで( ⑤ )を結んだ。また、将軍のあとつぎ問題でも、水戸藩出身の一橋慶喜をしりぞけ、徳川慶福(のちの徳川家茂)を14代将軍に決めた。 400 直弼の強引な政治のやり方に反発する者に対し、直弼は弾圧を加え、橋本左内や( ⑥ )を死刑にした。このできごとを( ⑦ )という。 401 ( ⑦ )により、水戸藩の浪士などの不満が高まり、( ⑧ )年3月3日、直弼は江戸城登城の途中を襲われ殺された。この事件を( ⑨ )という。 ①彦根②大老③1858④ハリス⑤日米修好通商条約⑥吉田松陰⑦安政の大獄⑧1860⑨桜田門外の変 402 吉田松陰 403 長州藩(山口県)の下級武士の家に生まれた吉田松陰は、21歳のとき九州に旅に出て、平戸や長崎で海外の様子にふれた。翌年、江戸へ出た松陰は、信濃国(長野県)松代藩士の( ① )の門に入り、西洋兵学について学んだ。 404 1854年、( ② )が再び来航したとき、下田で黒船に乗ろうとしたが失敗し、牢に入れられた。その後、牢を出た松陰は、( ③ )を開いて若者たちに学問を教えた。その中には、幕末から明治維新にかけて活躍した高杉晋作・伊藤博文・木戸孝允らもいた。 405 1858年、幕府がアメリカなどと通商条約を結ぶと、国内では、開国に反対し外国人を武力で打ち払えという( ④ )論が高くなり、松陰も幕府批判を強めた。 406 1859年、大老( ⑤ )によって、幕府を批判する者に対して( ⑥ )が行われた。このとき、松陰も、老中の暗殺計画を立てたため処刑された。 ①佐久間象山②ペリー③松下村塾④攘夷⑤井伊直弼⑥安政の大獄 407 勝海舟 408 勝海舟は、貧しい旗本の長男として江戸に生まれた。1853年にアメリカの( ① )が来航したとき、幕府に海防についての意見書を提出して注目され、幕府が長崎につくった海軍伝習所でオランダ人技師から海軍技術を学んだ。1860年に幕府が軍艦( ② )をアメリカに派遣したとき、海舟は艦長になり、はじめて日本人の力で太平洋横断に成功した。 409 帰国後、海舟は軍艦奉行となり、神戸に海軍操練所をつくった。ここでは、後に薩長同盟を結ばせた( ③ )や陸奥宗光も学んだ。 410 1867年、15代将軍( ④ )は政権を朝廷に返した。その後、新政府軍と旧幕府軍の戦いである( ⑤ )が始まった。新政府軍は江戸城総攻撃を1868年3月15日と定めていたが、海舟と( ⑥ )の会談により、江戸城は無血開城され、江戸の街は戦火からまぬがれた。 ①ペリー②咸臨丸③坂本竜馬④徳川慶喜⑤戊辰戦争⑥西郷隆盛 411 徳川慶喜 412 徳川慶喜は、水戸藩(茨城県)の藩主徳川斉昭の子で、一橋家の養子となり、あとをついだ。13代将軍家定のあとつぎ候補とされたが、大老( ① )は、徳川慶福を14代将軍(家茂)に決めた。 413 1866年に家茂がなくなると、慶喜は15代将軍となった。このころ、( ② )藩と薩摩藩を中心として倒幕運動がはげしくなっていた。そこで慶喜は、( ③ )年10月、政権を朝廷に返すことを申し出た。このできごとを( ④ )という。 414 ( ④ )によって、約( ⑤ )年続いた江戸幕府がたおれ、鎌倉幕府以来約( ⑥ )年続いた武家政治が終わった。 ①井伊直弼②長州③1867④大政奉還⑤260⑥700 415 岩倉具視 416 (①)出身の政治家。幕末から明治維新にかけて活躍。 417 条約改正のために(②使節団)を組織して欧米を訪問。 条約改正はできなかったが欧米各国を視察し帰国後は征韓論を退け内政充実に努めた。 ①公家②岩倉 418 木戸孝允(桂小五郎) 419 (①)藩出身の政治家。(②塾)に学び尊王攘夷運動の中心人物。 420 明治政府の中心的存在。岩倉使節団にも参加。西郷、大久保とともに維新の三傑と称される。 ①長州②松下村 421 大久保利通 422 (①)藩出身の政治家。幕末は倒幕運動に活躍。明治維新でも政府の中心的存在。 423 岩倉使節団に参加し帰国後は政治の実権を握った。 424 明治維新に不満を持つ士族によって暗殺された。 425 木戸、西郷とともに維新の三傑と称される。 ①薩摩 426 西郷隆盛 427 (①)藩出身の政治家。倒幕に活躍。明治政府でも中心的存在として活躍。 428 征韓論がかなわず政府を去った。人望があり、不平士族にかつがれて(①)戦争を起こした。 429 西南戦争に敗れて自殺。木戸、大久保とともに維新の三傑と称される。 ①薩摩②西南 430 伊藤博文 431 長州藩出身の政治家。松下村塾に学び尊王攘夷運動では重要な役割をはたした。 432 明治維新でも活躍。特に維新の三傑なきあとの藩閥政治の中心。憲法制定のためヨーロッパに渡りドイツの憲法を調査。 433 初代(①)大臣。(②)総裁。韓国統監。朝鮮人の安重根に暗殺された。 ①内閣総理②韓国統監 434 板垣退助 435 (①)藩出身の政治家。 436 明治政府の参議だったが征韓論がかなわず政府を去った。そのあと(②)運動を指導。立志社、愛国社(のち国会期成同盟)、自由党。 ①土佐②自由民権 437 大隈重信 438 (①)藩出身の政治家。明治政府で制度の確立に努めるが、自由民権運動がおこるとこれに同調し国会の即時開設をもとめ伊藤博文らと対立。 439 政府を去って(②)党を設立。また、早稲田大学を創立したことも有名。 ①肥前②立憲改進党 440 中江兆民 441 土佐藩出身の思想家。フランスの思想家(①)を日本へ紹介し「東洋のルソー」と称された。自由民権運動の理論的指導者。 ①ルソー 442 植木枝盛 443 (①)藩出身。自由民権運動の理論的指導者。 ①土佐 444 幸徳秋水 445 社会主義者。日露戦争直前に非戦を訴えた。(①)事件でつかまり処刑された。 ①大逆 446 内村鑑三 447 日本の(①)教思想家。日露戦争直前に非戦を訴えた。 ①キリスト 448 陸奥宗光 449 政治家、外交官。日清戦争直前、外務大臣としてイギリスとの間で(①)の撤廃に成功。 ①治外法権 450 小村寿太郎 451 外交官。1911年(①)権の回復に成功。 ①関税自主権 452 福沢諭吉 453 思想家、教育家。(①)大学の創設者。 454 (②)の著者。 ①慶應義塾②学問ノススメ 455 津田梅子 456 教育家。日本の女子教育の先駆者。初めての女子留学生。(①)大学の創始者。 ①津田塾 457 与謝野晶子 458 作家、歌人。ロマン主義。日露戦争中「①」で反戦をうたう。歌集「みだれ髪」など。 ①「君たもうことなかれ」 459 坪内逍遥 460 小説家、文学者。小説「①」で写実主義を主張した。 ①小説神髄 461 森鴎外 462 軍医、小説家。夏目漱石と並ぶ明治の文豪。代表作として「①」など。 ①舞姫 463 夏目漱石 464 小説家。森鴎外と並ぶ明治の文豪。「①」「吾輩は猫である」「三四郎」「こゝろ」など。 坊ちゃん (草枕 465 岡倉天心 466 美術家、美術評論家。(①)の助手となり日本画、日本美術の復興に力をつくした。 ①フェノロサ 467 黒田清輝 468 洋画家。「①」などの作品が有名。 ①舞子 (読書 湖畔 469 大正時代 470 吉野作造 471 政治学者。(①)主義をとなえ、大正デモクラシーを導く。 ①三民 472 桂太郎 473 長州藩出身の政治家、。3度内閣総理大臣になり、第3次桂内閣は(①)運動により倒された。 ①第一次護憲 474 寺内正毅 475 長州藩出身の政治家。第18代の内閣総理大臣となり、(①)出兵を行うが、(②)騒動により寺内内閣は総辞職した。 ①シベリア②米 476 原敬 477 政治家。米騒動で寺内内閣が倒れた後第19代内閣総理大臣となった。 平民宰相、はじめての本格的(①内閣)を組織した。 社会主義運動弾圧や普通選挙法に反対したことなどで暗殺された。 ①政党 478 平塚らいてう 479 女性解放運動、婦人運動を指導した。(①社)をつくり、雑誌「青鞜」を発刊。『元始、女性は太陽であった』と宣言した。 ①青鞜(せいとう) 480 志賀直哉 481 小説家。雑誌「(①)」を創刊。白樺派を代表する作家。 ①白樺 482 小林多喜二 483 小説家。(①文学)の代表作家。「蟹工船」など。 ①プロレタリア 484 芥川龍之介 485 小説家。短編小説に多くの傑作を残した。「(①)」「杜子春」など。 ①羅生門 486 昭和時代 487 犬養毅 488 政治家。1931年内閣総理大臣に就任するが1932年(①事件)により殺された。 ①五・一五 489 杉原千畝 490 外交官。第2次世界大戦時、リトアニア領事館でナチスの弾圧からのがれてきた(①人)にビザを発給し何千人ものユダヤ人を救った。 ①ユダヤ 491 吉田茂 492 政治家。(①条約)締結時の内閣総理大臣。 ①サンフランシスコ平和 493 池田勇人 494 政治家。内閣総理大臣就任後「(①計画)」を打ち出し高度経済成長に大きな役割を果たした。 ①所得倍増 495 岸信介 496 政治家。内閣総理大臣在任中に(新①条約)の調印をおこなった。安保闘争がおき、責任を取って辞任。 ①日米安全保障条約 閲覧数
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