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学び合いを推進する理由(R元~R3校長)

学び合いを推進する理由を一言でまとめることはかなり難しいものですので、短編(学び合いメルマガ)にタイトルを付けた形で述べたいと思います。

 

学び合いメルマガ001 卒業式の日に

 

『学び合い』を社会科で実践していたときにある出来事がありました。その出来事が直接的な理由となっています。その出来事はエッセイ風にまとめまています。

 

 

 

「先生、卒業式の日にこんな話をしてごめんなさい。でも、伝えておきたかったので。」

彼はそう言って話してくれた。

 

聞けば、そうとうないじめを受けていたと言う。

 

名前で遊ばれる

落書きされる

物隠しをされる

後から押される

グループ外しをされる

提出物集めの時、自分だけとばされる

 

小学校中学年から始まったいじめは

6年生まで続いた。

 

「みんなと同じ中学校になんか進みたくない、」母親と毎日のように涙を流した。

 

だから、近隣の国公立、私立はすべて受験した。

でもうまくいかなかった。

 

泣く泣く迎えた中学校の入学式。

 

母親とうなだれながらも真新しい学生服にかすかな期待をした。

 

入学してからもいじめは続いた。

 

自分のプリントだけ、親指の爪と人差し指の爪で挟んで、まるで汚いもののように。

 

自分がしゃべると、耳をふさぐふさぐ人がいた。

隣の人の机がものの数センチ遠い。

自分の左に座る人はみんな右手で頬杖をつく。

誰も気づかないようないじめだった。

 

2年生になって、『学び合い』が始まった。

余計に孤独を感じたが、別にいいと思った。

ただ、これまでと違うのは、

先生がよく机の横に来てくれる。

 

これまで話したこともなかった人が、

「みせて。」っていってきた。

 

半年過ぎて気づいた。

 

自分のまわりにいつも2、3人がいる。

「みせて。」が「教えて。」に変わってきた。

うれしいと感じた。

 

教えるだけでそんなに喜ばれるのであれば、

もうちょっと勉強しようと思った。

 

そんな折りに、先生はぼくに無茶ぶりをしてきた。

「第一次護憲運動について20分、授業してくれないか!?」

 

『できるわけないじゃん、俺、いじめられてるんだよ。』って心で呟きながらも、

 断りきれず、受けた。

 

文字や線が斜めにならないように練習した。

文字の大きさも、チョークの色も、

何回も何回もやり直した。

 

話す順序も、みんなが「はっ」と思うように並び替えた。

 

だから、伝えたかったことはだいたい伝えられた。

話すことと、だいたい同じように黒板に書いた。

時間内に終えた。

 

先生は、「練習通り。」と耳元でささやいてくれた。うれしかった。

 

いつも、僕に聞きにくる女子もだけど、

拍手が多く感じた。

 

それから、いじめはなくなった。

僕をいじめていた人は、上から目線だけど、「教えろよ」と寄ってきてくれた。

 

他の教科でも、「そうならないかな。」と思ったので、頑張った。

 

やがて、数学の先生が『学び合い』を始めた。

まもなく国語の先生も『学び合い』を始めた。

あれから僕の人生はかわった。

 

彼の横には、肩をふるわせながら

ずっと下を向いたままの母がいた。

頬をつたい滴るように落ちる母の涙はヒールの爪先を濡らしていた。

 

一頻り話をした彼は深々と頭を下げた。

その後を追うように母も。

ふたりは、

校門から外へと大きな一歩を

力強くふみだした。

 

 

~

学び合いメルマガその2 「なぜ学ぶのか」ということ

 

さて、『学び合い』を語る前に、「なぜ学習をするのか、なぜ学ぶのか」という学力の原点なるものにふれたいと思います。

教科担任をしていて、クラスの平均点をあげるのはさほど難しいものではありません。

過去問に取り組み、居残り学習、宿題などを徹底すれば良いでしょう。

 

しかし、最底辺の子どもの学力を向上させるのはかなり難しいと思いますし、トップの子どものをさらに伸ばすのも難しいものと思います。

 

授業時間は1コマ50分。教師⇔生徒の個別指導には限界があります。

そうなると、成績上位⇔最底辺という方法が良いのではないかという論議に行き着きます。

 

さて本題です。

世の中には「何故、学ぶのか」という言説は古くからあります。

しかし、具体的な教科内容(例えば、物理で振り子の等時性)を学ぶ意義を示せる「何故、学ぶのか」はありません。

これが問題にならなかったのは教育研究のシステム上の問題と言えばよいのでしょうか。

 

一般的な「何故、学ぶのか」は学校教育系で研究され(発達段階といわれる学齢に応じた学習内容の習得を理由とした研究)、教科内容は教科系で研究されてきました。

 

教科系では、教科内容を学ぶべきことと大前提とされてきて、疑われていません。

ちなみに教科系の学術論文で、「なぜ学ぶのか」を扱ったものはないように思えます。

 

私の場合、「なぜ学ぶのか」の追求は学力的に常に最底辺の子どもたちに教えているときに感じます。

教科指導の経験年数が長くなればなるほどその思いは強くなっていきました。

 

子どもたちは「先生、なんで社会を勉強するの?」と言います。

 

(極論ですが)

簡単に言えば、学習指導要領や学術論文に書かれてあることは、その教科が大好きな子どもは納得しますが、最底辺の子どもたちは理解納得できません。

その教科に興味のない人にとっては「いやなこと」「したくないこと」「必要のないもの」の理屈だからです。

 

そんな疑問を持ちながら教科担任をしているときに『学び合い』と出会いました。

(これは、『学び合い』を実践している教師のほとんどがそのようです。)

 

例えば、小学校の算数では多くの時間を費やして四則演算を学びます。

何故でしょう。

買い物が出来るようになるためと言いますか?

でも、どうでしょう?

「君たちが買い物するとき計算する?しないよね?バーコードを読むだけでしょ?第一、勉強の時以外に筆算したこと、この1年間にあった?無いよね。」………

 

私たちの知識・技能は高度に文脈依存的で、領域固有的です。

簡単に言えば、算数・数学で育てられる論理的思考力は、数学の問題を解くための論理的思考力であって、一般的な論理的思考力ではありません。

 

認知心理学では、すべての教科領域等の学習において論理的思考が育てれると結論付けています。理系で生きていこうという人には必要ですが、日本人の大多数には、こと数学の学習内容で論ずればあまり関係ありません。

 

国語の時間に空書きして書き順を覚える。

「自分のお顔の前に手を出してお空に書きますよ~!はあい、みんないっしょに」

 

乱暴な言い方をすれば、書き順が重要なのは筆で書くときです。一般社会で働く大人が1年のうちに人前で文字を筆で書くことがどのくらいあるでしょうか。

 

予定でさえスマホの時代です。

あるとしたらちょっとしたメモ書き、祝儀・不祝儀の芳名帳ぐらいではないでしょうか。

私たち教員も板書と家庭への連絡帳、宿題のコメントをカウントしないで手書きをどのくらいしたかと考えればわかると思います。

 

さて、自分の教科で、子どもに何故学ぶのかを説明し、納得させてください。

私が今まで説明したような反論をするとすれば、おそらく、論破は無理でしょう。

 

教師が教えている自教科の学ぶ意義を、その教科が大嫌いな人に納得させられますか?

 

最底辺の子どもたちの意欲、関心、態度を引き出すことができてその授業は「うまくいったかも」と思えるのですが、私はそんな授業をしたことありません。できるとしたら『学び合い』ではないかと思います。

 

 

~

学び合いメルマガその3 ひとりも見捨てないという『学び合い』の全員達成の真意

 

「ひとりも見捨てない」という意味は、授業者と学習者が「孤独にならない」「孤独にさせない」「分かったふりをしない」「分かったふりをさせない」を根幹に置き、「見捨てないという意志を持ち、見捨てないための努力をする」に置き換えることができます。

 

授業者であれば、常にこのような目標達成を目指して日々、授業をしているのではないかと思います。そう考えれば「一人も見捨てない」や「全員達成」を設定することは、何も『学び合い』特有のものではないということがわかると思います。

 

授業者は日々の授業で「今日のめあては○△□です。みんな、分かろうね!」と声をかけ授業をはじめます。

 

『学び合い』では「全員達成しようね!」という授業者の思いをめあてに組み込んだり、授業はじめの語りで確認したりします。

また、『学び合い』では、めあてを「○△□※□について全員が(説明)できる!」というアウトプット型にします。なぜなら「学力=アウトプット」だからです。

 

『学び合い』でなくとも、

「~を考えよう!」

「~をまとめよう」

「~を話し合おう!

「~を理解しよう」というめあてにしないのは、「考えた!」を何で計るのか?

「まとめた!話し合った!」は説明できるということなのか?

 

「理解した!」とはどのくらい理解しているのか?となるからです。

 

このようなめあては、アウトプットレベルまで達していないと言えますし、学習者は自分が勉強したことを確認できずに授業を終わってしまいます。

ただし、アウトプットに繋ぐために単元の途中に「考えよう、話し合おう、まとめよう」というめあての設定は当然あり得ます。

 

加えて、学習の思考の一般的なプロセスは[課題発見→課題設定→課題解決(情報収集→情報選択→情報活用)→情報発信→再構成→情報発信]となります。ゆえに最終的にはアウトプットがなる単元構成が求められるわけです。

 

また、『学び合い』ではめあてに「全員が」と入れます。「全員が」とめあてに取り入れれば学習場面における関わりの発生が期待できますし、かかわりの仕込みができます。かかわることの重要性が生徒に意識化できれば対話にも効果的です。

 

『学び合い』をスタートさせた時に「全員達成ができない」という悩みを抱える教師がいます。当然と思いますが、「全員達成」を絶対しなければいけないというわけではありません。

誰がどんな授業をしようとも全員達成を目指さない限り、それは「下位の生徒を見捨てる」という前提に立って授業をしているということになります。

 

授業者サイドで言えば、全員達成ができた授業の経験があるかといえばそれは愚問でしょう。

もし、全員達成できた授業があると言えるとするならば、その授業のめあての目標レベルが低いか、個に応じためあてになっていないということになります。

つまり上位の生徒にとっては課題解決が簡単過ぎたということになります。

 

平たく言えば、その単元テストをして学習者のすべてが満点を取れば「全員達成」と言えるでしょう。しかしこれは永遠の課題でしょう。

「全員達成」は絶対目指さなければならないことであるとともに、ロマンでもあります。

では、どんなめあてにすればいいのかという話になりますが、それはめあてに迫る問いで学習者一人必要の習熟度に対応することが求められます。

 

話を元に戻しますが、「ひとりも見捨てない」「全員達成」を目指すがゆえに教師一人の力では無理が生じます。

そこで、「子どもは有能である」という子ども観による、子どもと子どもの学び合いが発生します。

『学び合い』では『学び合い』スタート時点あるあるとして、好きな子同士、男女混ざらない、ひとりぼっち、世間話ばかりしている、が発生します。

 

そんな子どもたちの実態に「あの子は自分から行かないんだよね~」「結局おしゃべりばかりして学び合いをしないんですよ~」と言って、何の手も打たない教師は、一斉授業であってもおよそ同じことが発生します。

 

しかし考えようによっては、学習者の実態が把握できたことになります。

対話型を取り入れれば、取り入れるほど授業者にとって困ったことになりますが、ここで次のステップとなります。

授業者は学習者同士を繋げなければなりません。ファシリテーションです。それが教師の仕事です。

 繋げるためには「見取り」をしなければいけません。

 

例えば、ひとりぼっちの子がいたとします。

①その子が自力解決をしているためにひとりぼっちなのか、それとも②誰かが来るのを待っているのか、それとも③自力解決もしたくない、誰とも関わりたくないのかは見取りで判断します。

①であれば、見守りますが、ずっと自力解決をしていて、「自分さえ良ければ」という思いで学習を進めているのであれば、繋げるタイミングを狙わないといけないでしょう。

②であれば、他のグループの課題解決進度を見ながらタイミングよくひとりぼっちの子に繋げることが求められます。

③であれば、教師の個別指導が必要かもしれません。ただし、終始、個別指導すれば良いというものでもありません。

 

いずれ繋げたいと思う子に、ひとりぼっちの子に対する教師の思いや願いや計画を話しておきます。

そうすると、教師の願いを受けた子はほどよい距離間を持ちながらひとりぼっちの子の心を探ったり、タイミングを考えたりしてかかわろうとします。

このように見取りの精度、見取りのセンス、そして見取り後のファシリテーション力が授業者、教師として重視しなければならないことであり、授業力の要となるのは明らかです。

 

 

~

学び合いメルマガその4 「一方的な授業がよくないっていうけど、根拠があればしりたいな」という質問

 

とても大切なつぶやきです。シンプルで根源的な疑問は多くのものを生み出します。

教育に関して基礎的な実証的な調査というのが殆ど無くて、多くは根拠俺々レベルと言えます。

少数ですが一方的な授業より対話的な授業の方が、成績が上がるという調査もあります。

しかし、教育には変数が多いと言えます。なぜなら、生の人間を相手にしているからです。

 

さて、学ぶ内容、学習者の年齢、学校段階等々あります。

 

それを超えて普遍的に応えようとした場合、少数の前提に基づいて論理的に説明するべきでしょう。

 

私だったら以下のように説明します。

前提としては「人によって分かりやすい説明は異なる」と「その説明が分かるか分からないかを判断できるのは当人である」の二つです。

 

おそらく、この前提は認めてもらえると思います。

少なくとも、認める人ならば、「一方的な授業では1種類の説明をするので、その説明が分からない人は分からないままになります。

対話的な授業ならば、説明を聞く人が分からないと伝えることが出来て、説明者が別な説明をするので、分かる可能性が高まる。」という説明になるでしょう。

 

ただし、これが可能なのは1対1の関係で、1対40人の授業では不可能です。だから、『学び合い』では、40人が学び手になり、教え手になる。

教師はそのような集団を維持・向上することが仕事となります。

 

(ちなみに、もし一方的な授業で全員が目標達成ができる分かる授業であれば授業はしなくてもいいはずです。授業で話すこと、書くことをプリントして渡せばいいのです。そんなことあるわけないですが。)

 

義務教育のクラスには将来、東京大学に合格するかもしれない子どもがいる一方、知的障がいが疑われる子どもがいます。

その子どもたちに一つの口、一つのチョークで教えるなんて、どだい無理なことなのです。

私はそう思います。

 

 

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学び合いメルマガその5 学ぶべき知識技術等とは

 

教科学習の課題を、「学ぶべきとされている知識・技術を得る。」ではなく、「学ぶべきとされている知識・技術を、全員が得る。(そのためにはどうすればよいか考え、各自実行する)」という方向性にすることによって、得られるメリットが3つあると考えています。

 

1つ目は、

「協働して困難を乗り越える」という意識を、早期に教育できること。

学習指導要領が目指している「社会に開かれた教育課程の実現」は、今の子ども達が大人になった後も求められることが予想されます。

そう考えるならば、このような学習課題を通して、早い段階から協働することの意義や重要性を実感させたいと思います。

 

2つ目は、

「資質、能力の3つの柱」全てを同時に育成できるということ。

学んだ知識・技術を全員の物にするには、改めて学びを思考、判断しながら整理し、自分以外の他者に伝わるよう表現する、といった学びの姿勢が求められます。

これによって、「資質、能力の3つの柱」である「知識及び技術」「思考力・判断力・表現力」「学びに向かう力・人間性」全てに関わる学びを、定常的に生み出すことができます。

 

3つ目は、

効率のよい学級作りが可能になるということ。

当たり前ですが、教科学習のない日はありません。

 

子ども達の安全、安心が、ある程度保証された環境で、一人一人が一人一人を意識するこのような学習を毎日毎時繰り返せば、教科学習を行う度に人間関係が良好になるサイクルが生まれます。

それを土台にしながら、一人一人の「学びに向かう力」が改善されていけば、学力の向上に繋がることも予想できます。

結果、効率のよい学級作りが可能になり、担任の抱える心身の負担も軽減されるでしょう。

 

ただし前提として、子ども達が安心して協働できる下地が必要となります。学級の目標、ルール、教室環境等に対する配慮を行なった上で取り組むことが求められます。

このように、課題の方向性を若干変えることで得られる3つのメリットについて述べました。

 

子ども達一人一人の協働を積極的に引き出すことで、学習指導要領の目指す指針に沿いながら、担任の負担も減り、結果働き方の改善にも繋げることができるように思います。

 

 

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学び合いメルマガその6 『学び合い』の基本的な考え方

 

 『学び合い』は一つの願いと、二つの観によって構成されます。

 

まずは願いです。

その願いとは、「子どもたちが一人も見捨てられない社会・教育を実現することによって一生涯の幸せ(つまり不幸でない)であることを実現する」ことです。

 

これを実現するには一人の教師では無理です。

①一人一人の子どもは何を獲得したら幸せになるでしょうか?

 

それが学校観です。学校観とは「多様な人と折り合いをつけて自ら課題を解決することを学び、周りの人は同僚であることを実感する」ということです(私なりの『学び合い』観)。

 

これを獲得できる人は幸せになるでしょう。

しかし、すべての人が自力で獲得できるわけではありません。

 

さらに言えば自力で解決できる人は多くはありません。

 

例えば、学校レベルで言えば、自力で一定以上の課題を解決できるのは一部の子どもです。

 

先生が授業で一斉指導している時は、およそ15/40番手あたりを対象に授業をしています。

 

その他の子どもが獲得できない原因は多種多様です。

その子どもたちに獲得させようとすると膨大な対話(時間)が必要です。

しかし、物理的に教師がすべてに対応できません。

 

②そこで「子供観」が必要となります。

 『学び合い』では「子どもたちは有能である」と考えます。

 

 一人一人の子どもを別々に見れば多くの子どもは能力がかなり低いと言えるでしょう。しかし、

それらが有機的に結びついた「子どもたち」はかなり有能と言えます。

 

③『学び合い』と他の教育「方法」とブレンドすることは出来ません。

 

 例えば、他の方法は、子どもたちの一生涯の幸せを実現するには何が必要か?と考えているでしょうか?

おそらく、それらは楽しくて分かりやすい授業の実現を願っています。従って、それとブレンドすれば、その視野はその日の授業、最大でも3年の視野に限定され、子どもたちの一生涯の幸せを保証する能力の獲得が出来なくなるのです。

 

また、他の方法は子どもたちを有能と考えているでしょうか?

有能と考えられなければ、いろいろの仕掛けを入れ込みます。

 

教師が前にでて教師主導型の授業になると、子どもたちはそれに依存するようになります。

結果として、教師はもっと何かをしなければならなくなり、さらに子どもは依存するようになります。結果として、もとの一斉指導に戻ってしまうのです。

 

(極論ですが)

カレーは美味しい。アイスクリームは美味しい。でも、カレーとアイスクリームを混ぜると美味しいとは言えない。おそらく、酷く不味くなります。

 

ただ、一斉授業と同じく、『学び合い』をどんなに追求しても、その授業力に上限はありません。

だからこそ、『学び合い』風で良いとか、『学び合い』ブレンドでは目指す『学び合い』にはならないのです。

逆に言えば、どんなに『学び合い』を目指していても『学び合い』風なのかもしれません。

 

※授業力→生徒一人一人の見取り、課題設定力、課題解決に迫る問いの構成力、見取りをもとにしたファシリテーション力等々

 

 

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学び合いメルマガその7 意欲関心態度の深み

 

人の気持ちというのは、A→Bというように変わると考えると、旧指導要領の関心・意欲・態度の順番ってよく言ったものだと思いました。

結論から言えば「気になる(関心)」→「やってみよう(意欲)」→「好き(態度)」ということになります。

もう少し追求するとそのあとの項目も「好き」→「考える」→「やってみる」→「内容を理解する」という順番になります。

こう考えれば、私はとても納得でき、よくできているなあと思います。しかし、旧指導要領の問題点は、この考えをそのまま形にしてしまった(具現化した)ことにあります。

 

実は、これは学習者の内部のメカニズムで、外からは見えません。

ですから、実際に起こっていることと評価の表記の順が違うので、何が重要でどうなればいいのかが混乱してしまうのです。

しかし、新学習指導要領は、外側から順に評価をしていきます。

「知識・理解(わかった・できた)」→「思考・判断(どう考えたのか)」→「学びに向かう姿勢(どうしていきたいのか・なぜそれをやってきたのか)」という順です。

これも結論から言えば、評価者が学習者を理解する過程の順になります。こうすることで「評価する」ことの意味付けが「子供をしっかりと見る」ということになるというわけです。

 

話題を少し戻します。

関心→意欲→態度というのは、一つの流れで、ほかの要素は入ってこないと考えていました。

違和感を覚えませんか。

 

もう少し私の考えの表現する精度を上げるために付け加えるならば、

「気になる(関心)」→「好き(態度)」という軸にほかの要素、例えば「できる」とか「得意」とか「わかる」といった要素が変化を促す触媒のような働きをしているということです。

それはそれぞれの要素は互いに触媒の働きをしていますから、「できる」という態度は、「好き」が触媒となって形成されていくのだということです。

ですから、「得意だから好き」というのは、「気になっていたものが持っていた能力「得意」の要素が影響した行動によって「好き」になった、つまり、「気になる」に「うまくできる(得意)」が変化を促し、「好き」になったということです。

 

上記はあくまでも私レベルの解釈です。

 

しかし、こうして考えて子どもの学びを見ていくと、「好きなこと」や「得意なこと」だけをやることだけがその子の可能性を最大限に引き出す「一手」ではないことが言えます。

「好き」を軸と考えたとき、どんな触媒が働いていたのかを知ることで別の軸や関心対象に目を向けられるのではないかと思います。

 

 

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学び合いメルマガその8 データに基づく『学び合い』

 

『学び合い』は学術データに基づいた個にこだわった研究と聞きます。

そのデータとはクラスの全ての子どもにICレコーダーを装着し、その言葉を記録したものです。そして教室に設置された4台のビデオカメラで記録された子どもの行動です。

それを最低で3ヶ月、長いときには数年記録し、分析した結果が『学び合い』の基礎となる学術データです。

 

抽出児童ではなく、何故、全員の記録をとるかと言えば、西川純氏は全員が分かるにはどうしたら良いかを求めていたからだそうです。

3ヶ月以上の記録をとる理由は学習内示、学習時期、子どもの人間関係№変化など複合的に絡み合っている学習場面を捉えたいからだったと聞いています。

 

しかし、この研究方法は膨大な労力を必要とします。

例えば、一人の子どもの1校時の記録を「聞く」ためには1校時必要なのです。しかし、それの文字起こしをして分類するには数時間かかります。

一クラス40人を分析するには、数時間の40倍かかります。つまり、1校時を分析するには100時間ぐらいかかるのです。

3ヶ月以上の記録を分析するとしたら気の遠くなるような労力が必要です。それによって得られるデータは、教師経験を数十年かけても得られないものです。

 

最近の本には、学術データは書かれていません。なぜならテレビを見ている人の多くは電子工学には興味が無いのと同じ理由です。

 

多くの教師は子どもをなんとかしたいと、もがいています。しかし、それが無理だということは、ほとんどの教師が気づいています。

だから、一人も見捨てない思いを共有する子ども集団を育てるという教師主導から子ども集団主導に変換するわけです。

 

付録

授業で、よく「ではグループ作って話し合いをしま〜す。」と指示を出します。

①そのグループが低位の集団だったら?

②そのグループの中に仲良しがいなかったら?

③寡黙なグループ集団だったら?

 

ICレコーダーからのデータには、

「ひとりじゃあの子のところに聞きにいけないけど、2人だったら行けるね!」

 

「ねえねえ、これってさあみんな難しくない?○※△ちゃんに聞いた方が良くない?」

などなどです。

 

教師は、目に入ってくる個を気にかける心を失ってはいけません。しかし、その心に負けて個に囚(とら)われては駄目なのです。

個ではなく、集団に目を向けなければならないと自らを強いなければならないのです。熱き心と、冷静な頭。なかなか辛いものです。

 

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学び合いメルマガその9 授業における「人とかかわる」という意味

 

「人とかかわる」という活動が、学校教育における学習活動のどのような要素になっているかを推し量る項目(尺度)が「人間性」です。

そして「人間性」の要素は、大きく「自己」に関すること「他者」に関することの2つに分けることができます。

つまり、「自分を変えることができる」「他者を変えることができる」ことができて、「人間性」の高い学習だといえるということだと思います。

そうした意味で、講義型で教員が一方的に伝える授業は、「人間性」が低いものと評価される可能性が高いことが言えます。教員の「人間性」は授業スタイルに出るということになります。

 

 

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