校歌/校章


校歌について
東与賀中学校生徒会編集兼発行「あけぼの」 創立十周年記念特集号(昭和32年9月28日発行) (5)新校歌の制定 より


 国家には国歌が必要であるが、又学校は校歌のある事が望ましい。私(鶴 清氏)が本校に赴任して間もなく御父兄や有志の方々からも希望が出たし、同僚職員よりも是非作詩して校歌の制定をして欲しいとの注文が出たのである。併し一度校歌を制定し登録を済ませば、なかなか改変や廃棄はむづかしいものである。従って相当以上に想を練り念を押して熟慮(じゅくりょ)せねばならぬ。こうして構想熟慮約一カ月即ち昭和25年正月元旦に作詩を完了し脱稿したのである。それでも不安だったので本村大野出身の歌人碇敏雄氏の校閲をうけ、早速作曲を当時成章中学校教諭、今日より考えると天才的な音楽家と迄称される原岡研一氏に依頼したのである。曲も同氏によって約二カ月ばかりで完成し直接校歌の歌唱指導のため一、二回は来校され指導されたが、同氏は間もなく病気となり、あの不慮の死となったのである。同氏が残された佐賀民謡、「菱やんよう」の名曲とともに本校の校歌もいつ迄も残って本校教育のシンボルとして愛唱せられることを希望してやまぬ次第である。
 かくて創業の大使命も着々と進捗したのであるが、何としても外では副島村長始め村当局、村議会の方々や育友会会長役員の御協力があり、内では教頭以下同僚各位の献身的な努力があって始めて成果はあがったのである。珠に同僚同志は優秀揃いであったが、今日では佐賀大学教育学部附属本庄小学校田崎校長、同校水町教諭、吉岡教諭、県教育庁総務課山田主事、佐賀商業高校古賀教諭、城南中学校西川教諭等多士才々の猛者揃いが各地に活躍しつつある。
 この事は1つの伝統となって、校長さん始め今日最も優秀なる職員が揃っているが、本校に勤務した水魚会員の現役諸公も先輩会員も大同団結して母校東与賀中学校の発展と栄光とを祈念してやまぬ次第である。以上創業の頃のあれこれを想い起こしつつ創業十周年を喜ぶ祝辞といたしたいのである。

                             ―昭和32年6月30日―


東与賀中学校の校章

 東与賀中中学校の校章について、①東与賀中学校生徒会編集兼発行「あけぼの」 創立十周年記念特集号(昭和32年9月28日発行)と②東与賀町史編纂委員会「東与賀町史」(昭和57年11月3日発行より)とに記載されている。 
下記のものは、東与賀町史編纂委員会「東与賀町史」からである。


(3)東与賀中学校の「校章」について
 中学校の校章は、当時勤務された水町定次先生が心血をしぼって考案し製作されたものである。水町先生はその当時を偲んで次のように述べられた。
 私が赴任してまもなく林校長さんから校章作りについて依頼があった。生まれたはじめての仕事であり、学校や村状について全く未知の者だけに私にとっては余りに過重の負担とも感じられた。しかし校長の言葉のうちに「東与賀中学の生徒に学校のシンボルとなるものを」という強い決意がよみとられたので、何とかしてみたいという気になった。それから二十日間夏休みに入るまでこの仕事に没頭した。
 まず、東の字体調査のために佐賀の図書館へ数回通った。東という三つの書体から二つを面白いと思った。その頃、校庭には夏ざくらと月見草が印象的な花びらをつけて満開だった。夏ざくらの花びらが私の目にしみた。結局二つのうちの一つの書体を夏ざくらの花びらで図案化して校章の形態とした。
 色彩は「青・紅・黒」の二組それに雲仙岳・稲田・校舎を配した風景図案を一つあわせて三種の図案構想がまとまった。この下絵を実物大にして画用紙にデザインし一応仕事を完了した。最後に決定の段階が残されていたので、これを全職員にみてもらい、全校生徒の希望投票もとってみた。それは多くの生徒が希望するものから採りたいと思ったからだ。こうして今日使用している校章が最終的に決定されたのである。
 当時のことを振り返って思うに、村長副島忠一・育友会横尾半次それに小学校長の三者が全く三見一体のがっちりした教育態勢で、東与賀村には協調精神が旺溢していた。この校章には校歌及び当該学校の教育目標を表現し、その精神の象徴であり生命といってもよい。願わくばこの校章が末長く生徒の皆さんから愛され生かされることを切に念願するものである。


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